伝馬船で1800キロメートルを航行
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「水谷新六」の記事における「伝馬船で1800キロメートルを航行」の解説
1897年6月15日、水谷は八丈島、小笠原から雇い入れた労働者を乗せて水谷が発見した島に到着した。労働者を下船させた後、採取していたアホウドリの羽毛を積み込んで6月30日に出航したところ、船は岩礁に激突して大破し沈没してしまった。水谷ら乗組員は辛うじて船に備え付けられていた伝馬船に乗り移り、島まで漕ぎつけて一命は取りとめた。 水谷らは一命は取りとめたものの危機的な状況には変わりが無かった。当時は無線通信の手段がなく、船が難破して島から出られなくなったことを外部に知らせる術はなかった。またグアムがまだアメリカ領となる以前のことで、近隣を航行する船舶もほとんど無かった。 やがて島に置き去りにされた形となった労働者たちの中から、不満の声が聞こえるようになった。まずは責任者の水谷を殺し、その次は誰それだなどという話を公言する者も現れだした。そのよう状況下で水谷は伝馬船で島を脱出して小笠原諸島へ向かい、救助を求めることを決断する。 伝馬船の大きさは長さ約6.7メートル、幅約1.5メートル、深さ約55センチメートルしか無い小舟である。これで太平洋に乗り出して小笠原へ向かうという水谷の提案に、当初他の者は尻込みした。しかし老水夫と若い水夫2名の計3名が、水谷と共に伝馬船に乗り込みたいと申し出た。 まず伝馬船を修理補強した上で帆を張り、7月10日朝、水谷ら4名はビスケット、干し肉、干魚、飲料水、雨水を貯める樽、そして旧式のクロノメーターを伝馬船に積み込んで出航した。出航時は好天であったが午後から天候が悪化し、夕刻以降は風波が強まり伝馬船は転覆しそうになり、船のコントロールはままならず波に任せるしか無かった。 航行中は船内に絶えず浸水があり、昼夜を問わず水の汲み出しに追われた。またクロノメーターのガラスが割れたため、海水に浸されないように4名の乗員は交替で身に付けることになった。船の位置を測ってみると小笠原を通り越してしまったことがわかり、伊豆大島を目指すことにした。やがて食料や飲料水が少なくなり、頼りの雨も降らず乗員たちの生命も危うくなってきた。後の水谷の証言によれば木綿製のシャツまで食べたという。 7月28日には遠くに島影が見えたものの見失い、7月29日もやはり島影が確認できたものの近づけなかった。そこで進路を北にとって房総半島を目指すことにした。7月30日午後、房総半島の山々が確認され、やがて近くを航行していた漁船に救助されて8月1日、勝浦に到着した。4名とも疲労困憊甚だしく、救助された勝浦で事情を聞かれた際、当初口がきけなかった。南鳥島から勝浦まで約1800キロメートルの伝馬船での航行であった。 この伝馬船での約1800キロメートルの航行は快挙として各新聞に取り上げられた。8月29日には市川喜七らが発起人となって水谷らの歓迎会が東京で開かれた。歓迎会は船団が隅田川を航行する形で始められた。船団は楽隊を乗せた伝馬船が先導し、続いて水谷ら4名が南鳥島からの航行時に使用した伝馬船にやはり航行時と同じ服装で乗り込んだ。その後には万国旗などで飾られた8艘の伝馬船が続き、隅田川河畔には大勢の見物人が押し寄せた。その後向島で歓迎式典が催され、水谷は多くの賞状賞品を授与され、榎本武揚ら来賓が水谷の行動を称えた。また日本海員掖済会は船員の模範として3名の水夫を表彰し、各人に10円の賞金を授与した。
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