仮館時代(1947-1971)
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「岡崎市立中央図書館」の記事における「仮館時代(1947-1971)」の解説
太平洋戦争末期に廃館した後、約2年間にわたって全面的に休館。1947年7月11日には岡崎公園内の康生町511にある演舞場(戦時中は青年学校校舎)だった建物にて再開館した。所在地は岡崎市康生町515、この場所は後に公園管理事務所となり、現在の岡崎公園グラウンド東側付近に相当する。戦後初の館長には岡崎市教育長との兼任で横田良四が就任したが、横田は1955年(昭和30年)頃に専任の図書館長となっている。延床面積は戦前の半分程度の280 m2であり、再開館時の蔵書数は戦後の混乱が影響して1,000冊程度だった。閲覧時間は午前10時から午後5時、閲覧料は1回50銭、館外貸出はできなかった。1947年には愛知学芸大学岡崎分校にCIE図書室が設置されている。 1950年(昭和25年)9月には部分的に開架が導入され、分類には日本十進分類法が導入された。1949年(昭和24年)には岡崎市立図書館運営委員会が設置され、1951年(昭和26年)には図書館法に則って岡崎市立図書館設置条例が公布された。1955年には岡崎図書館協会が発足している。1952年(昭和27年)の利用者数は32,734人(115人/日)であり、閲覧図書数は62,565冊(221冊/日)だった。一般利用者は約25%であり、残りすべてが児童だった。 1954年(昭和29年)には館外貸出を開始。対象は高校生以上であり、1回につき最大1冊・最大1週間であり、保証金として300円を支払う必要があった。1957年度の蔵書数は27,672冊であり、館外貸出数は6,051冊、館内利用数は64,584冊だった。この年の予算は総額293万2200円であり、うち備品費が127万5000円だった。1958年(昭和33年)には横田の後任の第5代館長に杉本斌が就任した。1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風や1962年(昭和37年)の台風14号では岡崎市立図書館も被害を受けたが、岡崎市は図書館よりも岡崎城や岡崎市民会館の再建を優先した。1962年には開館50周年を迎えたが、記念行事などは特に行われていない。旧青年学校校舎は建物が古くて狭く、テニスコートに隣接していたことで騒音がひどく、低地にあったため何度も洪水被害を受けた。 様々な問題があったため、六供町字出崎15番地1の愛知県立岡崎商業高校が移転したのを機に、1962年12月11日には岡崎商業高校が使用していた建物に移転した。北側校舎を改修し、3教室の間の壁を取り払って書庫・事務室としたほか、2教室を閲覧室としたが、教室の黒板はそのまま残された。延床面積は920 m2、蔵書数は4万冊となった。この場所は現在の甲山会館付近である。1966年4月には岡崎市官財課次長を務めていた西崎清忠が杉本の後任の館長に就任した。 この建物は老朽化が激しく、寒々としていて薄暗かった。同地に岡崎市民会館の建設が決定したことから、1966年(昭和41年)5月1日には康生通西2丁目20にある旧岡崎警察署庁舎へ移転した。この場所は現在の岡崎シビコ付近である。この建物は木造2階建で延床面積は約1,200m2と広かったが、大正初期の建築物であり老朽化が進んでいた。同年には家康文庫が設置されている。
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