京都大学のサル研究
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本格的な研究を始めたのは京都大学の今西錦司と伊谷純一郎らその門下生たちで、戦後間もない1948年からだった。彼らは当初、都井岬で半野生化した岬馬(御崎馬)を対象とするため、調査に来ていた。幸島に野生猿が棲息していることを知ると、「馬では複雑な家族関係や社会が成り立っていない」ともの足りなく感じるようになり、 関心は幸島のニホンザルに向けられた。 そして、ここでの研究から「人間以外の動物にも文化がある 」という説が初めて出された。1952年(昭和27年)に野生ザルの餌付けに成功し、より綿密な観察が可能になった。1953年夏、幸島対岸の住民の一人である三戸(みと)サツヱが今西らに「芋を洗うサルがいる」と告げた。この「芋洗い行動」は最初、人間から芋をもらった1歳の雌の子猿が浜辺の小川で始め、海水に浸すことが好まれるようになり、さらにサルの血縁や群れの仲間に広がり、子や孫が受け継いだ。従来「文化は人間固有のものであり、動物にはない」と考えられていた。が、世代を超え伝わっていることは、「芋洗い行動」を文化であるとする根拠の一つとなっている。 島では与えた芋を洗う様子の観察会が開かれている。また、多くのサルが芋2つを両手に持って走る様子が撮影され、一時的にではあるがニホンザルが自然に二足歩行することが知られるようになった。 サル一匹ずつに全て前を付ける(個体識別法)、親子・兄弟関係を記録し家系図を作るといった手法もここで始められ、京都・岩田山のニホンザルや、アフリカでのチンパンジーなど他所の研究でも広く取り入れられるようになる。幸島で、この手法に貢献したのが前述の三戸である。 霊長類研究(サル学)が欧米人ではなく、京都大学を中心とした日本人によってリードされた理由の一つに、宗教観の違いが挙げられている。キリスト教では人間は動物の頂点に立つ存在で、人間と他の動物の間には厳然とした壁がある。「動物にも文化がある」という考え方は、人間も動物の仲間の一つと考える仏教の世界観のほうが受け入れやすかったといえよう。 現在、幸島のサル及び生息地は「幸島サル生息地」として国の天然記念物に指定されており、文化財保護法によって保護されている。
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