京都大学と末川とは? わかりやすく解説

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京都大学と末川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 09:58 UTC 版)

末川博」の記事における「京都大学と末川」の解説

末川滝川事件後、大阪商科大学教鞭を執る傍ら滝川事件により辞職した助教授副手復帰向けて活動していた。これには京大法学部滝川事件により教員2/3失い、その再建は困難を極めていたという背景があった。当時学部長中島玉吉鳩山文相訪問し助教授四名・講師一名助手三名復職についての諒解求めた。 これと同時に法学部同窓会である有信会復帰工作始め、特に京大出身裁判所内の実力者であった大審院判事細野長良末川恒藤恭面会している。 末川・恒細野要請を受け、復帰内諾得た6人と共に立命館大学学長就任していた佐々木惣一の元を訪ねている。 終戦後元教授たちに対して京大への復帰要請され法学部執行部部長である黒田覚10月31日法学部学生大会席上宮本瀧川末川・恒四教復職確約した。しかし末川はこの時点京大復帰拒否しており、「復帰の正式交渉受けていない。しかし万一そんな話を持込んできてもはっきり断るまでだ。官等位階勲等を身につけて講壇立っている官立大学にどうして真に民主主義的な学園生まれよう研究自由大学自治期待出来よう欧米有名な大学権威ある大学殆んど私立である。私学においてこそ学的良心反しない研究態度求め得られるのだと信じている。ともかく現在のような教授顔触れの中-私が再び仲間入するようなことがあれば、凡そ頭脳疑われると思うがね」と新聞記者取材に対して答えた立命館大学法学部学舎存心館」1階ホールには、彼の言葉掲げられている。 法の理念正義であり 法の目的は平和である だが 法の実践社会悪と たたかう闘争である 末川個人については、自伝彼の歩んだ道』(岩波新書1965年)など、滝川事件については『末川博関係資料昭和八年京大事件関係資料』(立命館大学図書館1987年)に詳しい。ほかにも『末川博随想全集』全10冊(栗田出版会、1971-1975年)や、追悼文集追想末川博』(有斐閣1979年)、伝記末川博学問人生─』(兼清正徳著、雄渾社、1997年)等で末川を知ることができる。

※この「京都大学と末川」の解説は、「末川博」の解説の一部です。
「京都大学と末川」を含む「末川博」の記事については、「末川博」の概要を参照ください。

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