京都大学と末川
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末川は滝川事件後、大阪商科大学で教鞭を執る傍ら、滝川事件により辞職した助教授・副手の復帰に向けて活動していた。これには京大法学部は滝川事件により教員の2/3を失い、その再建は困難を極めていたという背景があった。当時の学部長の中島玉吉は鳩山文相を訪問し、助教授四名・講師一名・助手三名の復職についての諒解を求めた。 これと同時に法学部同窓会である有信会が復帰工作を始め、特に京大出身で裁判所内の実力者であった大審院判事の細野長良は末川・恒藤恭と面会している。 末川・恒藤は細野の要請を受け、復帰の内諾を得た6人と共に立命館大学学長に就任していた佐々木惣一の元を訪ねている。 終戦後、元教授たちに対しても京大への復帰が要請され、法学部執行部部長である黒田覚は10月31日の法学部学生大会の席上で宮本・瀧川・末川・恒藤の四教授復職を確約した。しかし末川はこの時点で京大復帰を拒否しており、「復帰の正式交渉は受けていない。しかし万一そんな話を持込んできてもはっきり断るまでだ。官等や位階勲等を身につけて講壇に立っている官立大学にどうして真に民主主義的な学園が生まれよう。研究の自由大学の自治が期待出来よう。欧米の有名な大学、権威ある大学は殆んど私立である。私学においてこそ学的良心に反しない研究態度が求め得られるのだと信じている。ともかく現在のような教授の顔触れの中-私が再び仲間入するようなことがあれば、凡そ頭脳を疑われると思うがね」と新聞記者の取材に対して答えた。 立命館大学法学部学舎「存心館」1階ホールには、彼の言葉が掲げられている。 法の理念は正義であり 法の目的は平和である だが 法の実践は 社会悪と たたかう闘争である 末川個人については、自伝『彼の歩んだ道』(岩波新書、1965年)など、滝川事件については『末川博関係資料昭和八年・京大事件関係資料』(立命館大学図書館、1987年)に詳しい。ほかにも『末川博随想全集』全10冊(栗田出版会、1971-1975年)や、追悼文集『追想末川博』(有斐閣、1979年)、伝記『末川博─学問と人生─』(兼清正徳著、雄渾社、1997年)等で末川を知ることができる。
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