亜細亜大学時代
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1年春から東都大学野球リーグ戦に出場。2009年4月21日の中央大学戦で同リーグ初登板初先発を果たすと、延長10回を投げ抜き、5安打8奪三振で完封勝利を挙げた。続く國學院大學戦でも完封勝利。「1年生投手による初登板から2試合連続完封勝利」は、東都大学野球連盟に正確な記録が残る1950年以降では史上初の快挙となった。5月8日の國學院大學戦では「同リーグの新人では史上初」「同校の選手では創部以来初」となる3試合連続完封勝利を達成した。4試合目の登板となった立正大学戦、デビューから33イニング目で初失点を喫したものの、1失点完投で4連勝。その後は扁桃腺炎で体調を崩したこともあり、5月26日の東洋大学戦で初黒星を喫したが、リーグトップの防御率0.82を記録し、ベストナインを受賞した。 7月12日から開催された日米大学野球の日本代表に選出され、初戦で国際試合初登板を果たし、第4戦では勝利投手となった。また、7月27日から開催されたアジア野球選手権の日本代表にも選出され、8月1日の中国戦に登板した。 1年秋のリーグ戦は、8月上旬に発症した新型インフルエンザによる投げ込み不足が影響し、シーズン序盤は苦しい投球が続いた。その後は復調し、2完封を含むリーグトップタイの4完投、リーグトップの67イニングを投げ、防御率2.01を記録。2季連続となるベストナインを受賞した。 2年春のリーグ戦、規定投球回到達者では2番目に少ない6試合の登板ながら3完封を含む5完投、防御率2.25を記録し、3季連続でベストナインを受賞した。 2年秋のリーグ戦では、3完封を含む7完投(リーグ1位タイ)、75回1/3(同1位)、防御率0.84(同2位)を記録したものの、4季連続のベストナイン受賞とはならなかった。 3年春のリーグ戦は、3完封を含む4完投を記録。2011年7月3日から開催された日米大学野球では、日本代表に選出された。 3年秋のリーグ戦、9月4日の日本大学戦で初の無四球完封勝利を挙げると、同27日の駒澤大学戦でリーグ新記録となる通算16完封を達成した。11月2日の青山学院大学戦ではチーム10季ぶり18回目のリーグ優勝が決定。この試合に先発し、1失点完投勝利を収めたことで胴上げ投手となった。防御率1.51、リーグ2位の4完投・65回2/3を記録し、初の最高殊勲選手を受賞した。その後チームは明治神宮大会に出場したが、東浜は右肘痛により登板を回避した。 4年次には同校の投手では初となる主将に就任。春のリーグ戦、3完封を記録すると、2012年5月16日の中央大学戦で自己最多を更新するシーズン4完封。チームを2季連続のリーグ優勝に導いた。6完投・5勝・59回・防御率0.92は全てリーグトップを記録し、最高殊勲選手・最優秀投手・ベストナインの3冠に輝いた。 全日本大学野球選手権に出場し、6月13日の八戸学院大学との初戦に勝利。大学初の全国1勝を掴むと、続く愛知学院大学戦では完封勝利を挙げた。準決勝の登板機会は無く、早稲田大学との決勝戦では先発したものの、7回4失点で敗戦投手となり、準優勝に終わった。 4年秋のリーグ戦では、 9月26日の國學院大學戦で通算22度目の完封勝利。チームは開幕から8戦全勝で3季連続となるリーグ優勝を達成した。チーム9試合目となった10月24日の青山学院大学戦に先発し、2失点完投負けを喫したものの、自己最多の13奪三振。通算では420奪三振となり、大場翔太が持っていた奪三振数のリーグ記録を更新した。5試合の登板全てで完投、リーグ3位の防御率1.02を記録し、2季連続の3冠に輝いた。 10月25日に行われた2012年度ドラフト会議にて、福岡ソフトバンクホークス・埼玉西武ライオンズ・横浜DeNAベイスターズの3球団から1位指名を受け、抽選の結果、ソフトバンクが交渉権を獲得した。 その後明治神宮大会に出場し、福岡大学との初戦で完封勝利を挙げた。準決勝の桐蔭横浜大学戦では登板機会が無く、チームは敗退した。 11月30日、契約金1億円プラス出来高払い5000万円、年俸1500万円(金額は推定)で仮契約を結び、背番号も「16」に決定した。
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