主観的な意識による定義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 09:08 UTC 版)
「ネーション」の記事における「主観的な意識による定義」の解説
nationの本質は主観的な意識 (subjective consciousness) なのであって、それが政治的、文化的、生物学的なものであるかどうかにかかわらず、客観的に共有される特質にはよらないとする議論もある。 ヒュー・シートン=ワトソンは「ひとつのグループが相当部分を占め、みずからを一個のnationをなすべきと考えるようになったとき (consider themselves to form a nation)、あるいはかれらがすでに一個のnationをなしているかのように振舞うようになったとき (behave as if they formed one)、たちまちひとつのnationが存在するようになる」と主張する。 エリック・ホブズボームも同様の立場をとる。「最初の作業仮説として、人々の十分に大きな集団があって、その成員が自らを「ネイション」の一員とみなしているのであれば、それをネイションとして取り扱うことにしよう」 またアーネスト・ゲルナーは一方では、まず闘争がはじめにあって、そのあとに、nationがやって来ることができるということを主張し、他方ではまた、ひとつのnationはかならず、互いにひとつのnationに属しているとみなしている人々からなる必要があることを強調する。 nationとは人間の信念と忠誠心と連帯感とによって作り出された人工物なのである。(例えば、ある領域の住人であるとか、ある言語を話す人々であるとかいった)単なる範疇に分けられた人々は、もし彼らが、共有するメンバーシップの故に、互いにある相互的な権利と義務とを持っていると固く認識するならば、その時、nationとなる。ある範疇の人々をnationへと変えていくのは、お互いがそのような仲間であるという認知であって、何であれ、彼らをメンバー以外の人々から区別するような他の共通する属性ではないのである。 実際、こうした現代の研究者がnationの主観的な構築性を指摘するはるか以前に、こうした観点はいまでは古典となっている社会科学の著作のなかに早くから現れていた。社会学の巨匠マックス・ウェーバーは民族体 (nationhood) の間主観的側面を強調し、グループのいわゆる客観的特質は、nationを定義するのには役に立たたず、そのため、nationという概念が、「価値的領域 (sphere of values)」に属していることを発見するに至った。nationという概念は、主として、本質的に、「他のグループを前にしてもつ一種特別の連帯感情」の上に作り上げられている。 ルナンもまた1882年に早くも指摘している。「共同の地理や地域、言語、種族あるいは宗教、そうした条件を持っているということは、少しもnationの存在の十分、あるいは必要条件とみなすことはできない。それに反して、nationは互いに関連した二つの要素をもっている。ひとつは、過去の記憶の豊かな遺産の共有であり、もうひとつは、ともに暮らし、これらの遺産を受け継いでいこうという欲望である。そのため、われわれがnationの本質について認識を深めようと思うのならば、こうした特別な歴史の意識から出てきた連帯感 (solidarity) の探求を進めなければならない。そのため、nationは一種の道徳的形式 (a form of morality) として理解されるべきなのである。
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