丹下左膳の登場
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林不忘の小説で丹下左膳が登場したのは、1927年に『東京日々新聞』『大阪毎日新聞』夕刊で、10月15日から翌年5月31日に「新講談」と銘打って連載された「新版大岡政談・鈴川源十郎の巻」だった。当初作者は大岡越前ものの連作長編を意図して書き始め、奥州中村6万石・相馬大膳亮の刀剣蒐集癖のために、夜泣きの刀の異名を持つ関の孫六の名刀、乾雲丸・坤竜丸という大小一対の刀を手に入れるために密命により江戸に潜入する家臣が丹下左膳であり、大岡越前の他、この争奪戦に加わった旗本鈴川源十郎、美剣士諏訪栄三郎、怪剣豪蒲生泰軒などとともに一登場人物に過ぎなかった。しかし二刀の持ち主である神変夢想流小野塚鉄斎道場への乱入を始めとして、次々と殺戮を繰り返すニヒルで個性的な人物像、右目と右腕のない異様な姿の侍という設定と、小田富弥の描いた挿絵の魅力によって人気は急上昇した。黒襟の白の着流しというスタイルは小田が創案し、不忘もこれを小説に取り入れた。 原型となる大岡政談の鈴川源十郎ものは多くの講談本でも扱われている題材で、邑井貞吉の講談「大岡政談」では、隻眼隻手の日置(へき)民五郎と旗本鈴川源十郎の2人が組んで悪行を働くというものだったが、不忘の『新版大岡政談』では全く別のストーリーになっている。 この人気にあやかろうと、2月には歌舞伎(浪花座)、新声劇(角座)で上演され、続いて映画会社3社が競ってこれを映画化した。主人公を演じた俳優は、団徳麿(東亜キネマ)、嵐寛寿郎(当時は嵐長三郎)(マキノ・プロダクション)、大河内傳次郎(日活)だった。それぞれ独自の魅力を発揮してヒットした。新聞連載中に映画製作は始まり、作者不忘は原稿を書きながらヨーロッパ歴訪に旅立っていたため、作品の結末が決まっていないままに映画は作られた。大河内、唐沢弘光カメラとのトリオで撮影した伊藤大輔監督は、裏切られたと知った左膳が主君の行列に斬り込み、「おめでたいぞよ丹下左膳」という台詞とともに自刃するという結末として、悲劇の主人公像を作り上げた。伊藤と大河内は『忠次旅日記』からのコンビで、独特のアクションと撮影方法の殺陣と、大河内のグロテスクとも言える憤怒の形相で、競作の中ではもっとも人気を得て、「とに角何といっても面白いんだからやり切れない。伊藤大輔って男は全くたいした野郎だ」(岩崎昶)と評され、キネマ旬報社のランキングで3位となる。また帝国キネマでは『大岡政談 鈴川源十郎の巻』三部作を、日置民五郎役に松本田三郎を配して映画化している。 ニヒルな剣客像は、中里介山『大菩薩峠』の机龍之介以来の系譜であり、同じ1927年には大佛次郎『赤穂浪士』の堀田隼人、土師清二『砂絵呪縛』の森尾重四郎といったニヒリスト剣客が生みだされていた。中里介山が大逆事件の影響を受けたように、この当時も芥川龍之介の自殺や金融恐慌、山東出兵といった社会の閉塞状況がこれらの登場を産んだとも言え、社会の不合理を破壊しようとするこれら剣士を大衆が支持したものと見られている。この小説は三田村鳶魚の『大衆文芸評判記』でも取り扱われており、享保の頃の江戸の各土地柄や金銭感覚、言葉遣いなどが槍玉に挙げられている。一方でこの作品の語り口の中のモダニズム、ナンセンス性、女物の長襦袢を着込んでいるという異性装の倒錯性などエロティズム、グロテスクといった、昭和モダニズムの織り込まれた時代小説であるという評価もされている。 不忘はこのシリーズを「新講談」と銘打ったことについて、「少数読者に向って上昇しつつある大衆文芸を出発線へまで引き戻そうと試みたのが、この『丹下左膳』である。その意図の下に、『新講談』なる肩書を加えてみたのだ」と述べている。
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