中国の水軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/22 17:37 UTC 版)
中国では「南船北馬」という言葉があるように、長江を中心に水路が入り組んだ南方において水軍が発展した。魏晋南北朝時代、五代十国時代、南宋時代のように中国が南北の勢力で分割されたとき、水路が入り組んだ南方江南の諸国は水路を天険の守りとし、強力な水軍を養成してしばしば北方の騎馬兵力を擁して軍事的に優越した華北諸国の軍を撃退することに成功した。 一方海上についてみると、中国の東方には広大な海が広がるが、歴代の統一王朝は首都を内陸の関中や河南に置いたことから明らかなように国家の目は内陸に向いており、本格的な海上兵力を養成して海外に直接国家が乗り出していったことはあまり多くない。しかし唐以来、漸次南方の沿岸に海外から交易に訪れる外国の海上勢力が増すにつれて中国においても海のもつ経済的な重要性が上昇し、元においては南宋治下の江南で養成された水軍を活用して、日本や東南アジアに対して積極的な遠征が行われた。江南から河北への物資の海上輸送が大々的に開始されたのも元代のことである。 14世紀に元を滅ぼした明においては、当時中国の沿岸部で跳梁していた倭寇と呼ばれる海賊勢力を遠ざける必要もあって、王朝を脅かす怖れのある海上勢力の禁圧策がとられた。具体的には民間には海外進出を禁じ、公的には貿易のルートを朝貢のみに限定、海禁政策を守り倭寇を打ち破るため、明においては強力な水軍が養成された。この明の水軍は、秀吉の朝鮮出兵に対して李氏朝鮮への援軍としても派遣された。明の第3代永楽帝は鄭和率いる大規模な海上艦隊を編成して東南アジアからインド洋、アラビア海まで派遣しているが、このような国家の水軍による積極的な海上進出は明清時代を通じてむしろ例外に属する。明の滅亡後は、亡命政権の隆武は南方に逃れて、海戦に不慣れな清に対して鄭成功らがしばらく抵抗をつづけたが、清は海軍を強化して澎湖海戦に勝利し、征服。この後、海外交易の抑制政策は明のものが基本的に清でも維持され、水軍は中国の南方を中心に海賊勢力に対する防衛力として維持された。 19世紀に入ると、ヨーロッパの進んだ海軍力に対して清の水軍はほとんど無力であり、1840年のアヘン戦争に大敗を喫する一因となった。アヘン戦争の講和条約によって清は開国を余儀なくされるが、それでも水軍の再編を行わなかった。清が水軍の再編について真に危機感を抱いたのは中国の南方の広い地域を巻き込んだ太平天国の乱において、その鎮圧に強力な水上兵力が必要とされたときであったが、イギリスからイギリス軍人を司令官とする艦隊を清の海軍とするよう提案されたのを拒否し、近代海軍の設立は再び先送りされた。清が水軍再編に対して重い腰をあげたのはようやく日本の台湾出兵によって屈辱的な和平を結ばざるをえなかった1874年であった。翌年、清は海洋水師の創設を布告して近代海軍の創設を決定し、伝統水軍の時代は終わりを告げる。
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