世界商品の変化とプランテーションの広がり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:36 UTC 版)
「近世における世界の一体化」の記事における「世界商品の変化とプランテーションの広がり」の解説
17世紀後半、アジアにもおし寄せた価格革命(詳細は#大西洋経済と価格革命)の影響は収束し、日本の鎖国、清の貿易統制の影響もあって交易は次第に衰退した。ヨーロッパで17世紀末に供給過剰によって胡椒価格の大暴落がおこると国際交易は更に衰退し、ヨーロッパ諸国は東南アジア進出から領域支配へと進出の方向を転換し始めた。 香辛料を主力商品としていたオランダはその価格の下落によって後退を余儀なくされた。代わって世界商品となったのが、潜在的需要の多いインド産の綿糸と綿織物、アメリカ産のタバコ、豊かになった市民層の飲料となった中国・インド産の茶、エチオピアからオスマン帝国に広がってヨーロッパで大流行したコーヒー、そして、茶やコーヒーに入れるための砂糖だった。イスラーム法では飲酒は禁じていたが、コーヒーには規定がなかったため飲むべきか否かで論争が起こったという。結果的にはトルコ・コーヒーは大流行し、西欧に先んじて各地にコーヒー・ショップができた。 それにともない、イギリスやフランスが台頭し、互いに熾烈な植民地戦争を繰り広げることとなる。しかし、貿易において17世紀から18世紀にかけての対アジア貿易は、中国・インド側の優位のもとに成り立っていた。 ヨーロッパ各国は砂糖を入手するためアフリカの黒人奴隷を運搬し、ブラジルやカリブ海周辺などの中南米で奴隷制プランテーションで砂糖生産を行うようになった。またサトウキビはラム酒の原料ともなり、主に北米植民地で加工されてヨーロッパに運ばれ、オランダやイギリスで愛飲されるようになった。プランテーションはやがて北米ヴァージニアのタバコや、トルコから移されたコーヒーなど他の農産物にも広がった。ニューヨークやボストンの港は奴隷貿易港として栄えるようになった。アメリカでは東部のインディアン部族が奴隷化され、またアフリカ黒人と混血したインディアンは「色つき(Coloured)」と呼ばれ、黒人の一種とみなされて奴隷にされるものも多かった。「黒人奴隷」は「アフリカから来た黒人」のみを指さない。 一方、アフリカ大陸では部族間の対立が続いており、奴隷商人は部族間戦争の捕虜を買い入れ、火器や工業製品を売った。こうして部族間戦争は奴隷狩りを目的とするものに変質し、戦闘は激しさを増した。壮年層が減少したアフリカ社会は活力を失って荒廃し、その経済も壊滅的な打撃を受けることとなった。 近世から近代にかけての世界の一体化へ
※この「世界商品の変化とプランテーションの広がり」の解説は、「近世における世界の一体化」の解説の一部です。
「世界商品の変化とプランテーションの広がり」を含む「近世における世界の一体化」の記事については、「近世における世界の一体化」の概要を参照ください。
- 世界商品の変化とプランテーションの広がりのページへのリンク