世界周航の業績
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「ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル」の記事における「世界周航の業績」の解説
1766年12月15日、博物学者、デッサン画家、天文学者を伴って、ブルターニュのブレストから世界一周の航海に出発した。船は新造のフリゲート艦ラ=ブードゥーズ(ふくれっ面)号であり、後に南アメリカでフリュート(フルートの意、細長い)型輸送船レ・トワール(星)号が合流した。 ブラジルでは植物学者のフィリベール・コメルソン(Philibert Commerçon)が、かなり後になって(ブーガンヴィルに因んで)ブーゲンビリアと名付けられることになる花を発見した。コメルソンの助手にジーン・バレという植物学者がいたが、その正体はジャンヌ・バレ(Jeanne Baré)という女性で、後に船医に性別がばれることになる。彼女は途中で下船するが後に帰国し、最初に世界一周をした女性となった。 イル・マルワーヌ(サン=マロ人たちの島)をスペインに返却した後、彼はマゼラン海峡を通過して太平洋横断に乗り出した。1768年3月、危険な暗礁に囲まれた多くの島の間を縫って航海し、そこを「危険な諸島」と名付けた(現在のトゥアモトゥ諸島)。1768年4月に、サミュエル・ウォーリスが発見したばかりのタイチ(タヒチ)島に投錨した。彼は其処には十日も滞在しなかったが、島民の歓迎を受け物々交換による取引を行った。好奇心旺盛な若いタヒチ人、アオトゥルをつれて出発した。アオトゥルは、結局パリまで付いていき、その帰り道、旧名フランス島(現在のフランス名モーリス島、モーリシャス諸島)まで戻ったところで天然痘に罹って死去した。タヒチから持ち帰ったサトウキビはフランス領ギアナに植え付けられ、さらにブラジルに伝わり、生産性を飛躍させた。 ブーガンヴィルは、後に彼の名を冠されることになる島(ブーゲンヴィル島)を探検した。彼は、サモア諸島、彼はそこを「航海者諸島(イル=デ=ナヴィガトゥール)」と呼んでいたが、その殆どの島を探検した。それから、ポルトガル人航海者ペドロ=フェルナンデス=デ=キロスの発見したサン=テスプリ諸島(1980年の独立達成以来ヴァヌアツと呼ばれているがニューヘブリディーズ諸島)を再発見し、ルイジアード諸島沿いに航海し、スペイン人メンダーニャが1567年に発見したのち200年間ヨーロッパ人が訪れなかったソロモン諸島に達した。この間しばしば逆風の航海となり船員は壊血病と食糧不足に見舞われたが、オランダ東インド会社の勢力圏に達し、モルッカ諸島のブル島とバタヴィアで食糧を補給。当初の計画にあった中国への航海は取りやめてインド洋を横断し、1768年11月にフランス島に寄港し輸送艦レトワール号とここで別れた。喜望峰を回ってフランスへ戻る途中、イギリス海軍が派遣した世界周航の探検隊であるカートレットの艦と出会い、これを追い越している。 1769年3月16日、ブルターニュのサン・マロに帰港し、フランス人として初の世界周航を達成した。1771年に『世界周航記』を出版、その中で、硫黄のにおいのする、「ポリネシアの天国(パラディ=ポリネシエン)」についての神話を喚起している。この本は、自然と共に生きて所有の観念に毒されていない「高貴な未開人」の土地が海の彼方に実在するという印象をヨーロッパの知識人層に与え、大きな反響を呼んだ。そのひとり百科全書派のディドロは1772年に架空の登場人物が語る対話体小説『ブーガンヴィル航海記補遺』を著し、タヒチ人の視点を擬してヨーロッパ世界への文明批判を展開した。
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