上演されなくなった「清玄桜姫」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 10:06 UTC 版)
「清玄桜姫物」の記事における「上演されなくなった「清玄桜姫」」の解説
清玄桜姫の芝居は、江戸ではたいてい弥生狂言、すなわち旧暦で桜の咲くころの芝居として毎年のように取り上げられ、人気演目のひとつであった。しかし時代が明治になり、大正昭和と移り変わると、清玄桜姫物はほとんど上演されなくなった。 大正から昭和戦前までの上演例を見てみると、大正8年(1919年)4月の明治座で黙阿弥作の『浮世清玄廓夜桜』を上演。これは桜姫が小桜という傾城で、清玄がその小桜のもとに通うという書き替え物。清玄は七代目市川中車であった。また初代中村吉右衛門は大正11年(1922年)4月に新富座で、『花吹雪岩倉宗玄』を上演。これは明治24年(1891年)に五代目菊五郎が同じ新富座で演じて以来の復活上演だったという。そして昭和2年(1927年)には本郷座で、『桜姫東文章』が『清水精舎東文章』(きよみずでらあずまぶんしょう)の外題で復活上演されている。この時は川尻清潭の脚色で清玄は初代吉右衛門、桜姫は三代目中村時蔵であった。『桜姫東文章』はこれ以後二代目市川猿之助(のちの市川猿翁)も昭和5年(1930年)に取り上げている。ほかには大正12年(1923年)3月に神田劇場での『清水清玄』(ただし配役や内容については不詳)、昭和12年(1937年)4月の新宿第一劇場では十四代目守田勘彌の清玄で『花吹雪清水清玄』(はなふぶききよみずせいげん)が上演されている。しかし戦後、これらの作品の殆んどは歌舞伎の主要なレパートリーとはなりえず、『桜姫東文章』ばかりが上演されているような状態にある。これについては、以下の理由が考えられる。 清玄桜姫の芝居はその都度内容を書き替えて上演されたが、明治以降鏡山物が『鏡山旧錦絵』として伝わったように拠り所となる台本や演出が作られなかったこと。 清玄桜姫の芝居を家の芸として受け継ぎ演じるという役者がいなくなっていたこと。 庵室の場で、やつれ果て髪の伸びた頭に汚れた着物という薄汚いなりの清玄が、桜姫をつかまえて陰々滅々とかき口説く…という内容が、観客や演じる役者の好みに合わなくなったこと。 およそ以上のことが考えられるが、その中にあって『桜姫東文章』が、「女清玄」の『隅田川花御所染』を措いては唯一と言ってよいほどの上演頻度を見るのは、ひとつには高位のお姫様が下級の女郎に転落するという、現代においても刺激的な趣向と、いまひとつ四代目鶴屋南北作であるということが人々の興味を集めているからだといってよい(詳しくは『桜姫東文章』の項目参照)。要するに清玄桜姫物だから取り上げているわけではないということである。そのほかの清玄桜姫物については、現中村吉右衛門が四国のこんぴら歌舞伎と大阪中座で上演したことがあったほかは廃滅にひとしい状態となっている。
※この「上演されなくなった「清玄桜姫」」の解説は、「清玄桜姫物」の解説の一部です。
「上演されなくなった「清玄桜姫」」を含む「清玄桜姫物」の記事については、「清玄桜姫物」の概要を参照ください。
- 上演されなくなった「清玄桜姫」のページへのリンク