上演と評価
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『マンダリーナの息子』の初演はいわば「家族向け」のものであった。1859年2月2日にサンクトペテルブルクにあるキュイの親戚のアパートにて、ピアノの伴奏で上演された。お役人の役のモデスト・ムソルグスキーや、宿屋の娘役のマリヴィーナなどが主なキャストだった。 最初の公開上演は1878年12月7日で、芸術家クラブ(露:Клуб художников)により行われたサンクトペテルブルクでの公演である。それ以来、これはキュイのオペラの中でもロシア国内で人気の高い作品となったが、キュイの死後、時をおかずしてあまり上演されなくなったようである。しかし1998年にはモスクワのポクロフスキー・チェンバー・ミュージック・シアターにより修正作品が再演されている。
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上演と評価
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「モスクワ芸術座版『かもめ』」の記事における「上演と評価」の解説
プロダクションは劇場中に危機感が漲る中1898年12月29日(ユリウス暦では12月17日)に開幕した。ほとんどの役者は自分の精神を安定させるべくセイヨウカノコソウのドロップを服用していたという。上演が始まると聴衆は興奮し、ある観客はチェーホフへの手紙で「第1幕で何か特別なことが始まった」と書き送っている。ネミロヴィチ=ダンチェンコは、長い沈黙の後に、ダムが決壊でもしたかのように観客から喝采がわき起こったと書いている。プロダクションはマスコミからも満場一致で賞賛を受けた。 1899年5月13日(ユリウス暦5月1日)になってやっとチェーホフが上演を見に来たが、これはパラディズ座でセットなし、メイクと衣装だけつけて行ったプロダクションだった。チェーホフは上演を褒めたが、スタニスラフスキー本人の演技についてはそれほど熱中しなかった。チェーホフはスタニスラフスキーのトリゴーリン解釈における「柔らかく意志の弱そうな調子」(これにはネミロヴィチ=ダンチェンコも同意している)に異を唱えており、ネミロヴィチ=ダンチェンコに「活を入れるとかなんとかしてほしい」と頼んだ。チェーホフはこの上演のミザンセーヌを記録したスタニスラフスキーのスコアと一緒に戯曲を刊行したいと主張した。チェーホフとスタニスラフスキーの協働は双方の創造的発展にとって不可欠であることが明らかになった。スタニスラフスキーの心理的リアリズムと群像劇作りのおかげで戯曲に隠れていた微妙な細部がうまく出てくるようになり、舞台のために書きたいというチェーホフの気持ちが甦ることになった。チェーホフは台本を説明したり膨らませたりはしたくないと考えており、 このせいでスタニスラフスキーは舞台芸術にとっては新しい手法でテクストの表面に隠れたものを探らざるを得なくなった。
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