上り線門司方圧気工法部
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「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「上り線門司方圧気工法部」の解説
上り線における圧気工法区間は、第二立坑から下り線建設時に施工済みの潜函までの467.32メートルで、中間に第一立坑を建設してあった。第一立坑からは第二立坑へ向かって掘進し、下り線建設時に施工済みであった1号潜函からも第一立坑へ向かって掘進する計画とされた。 まず1号潜函を圧気したうえで、起点側の壁を破って掘削を開始した。掘削は当初中央導坑先進逆巻式で、中央導坑先進式にある程度自信を得たため、進行速度を早めることを目的に後半は中央導坑先進全断面掘削とした。中央導坑先進逆巻式は、トンネル断面の中央付近に先に導坑を掘削し、その後、上部を切り広げて覆工を行いながら下部へ下ってくるもので、導坑掘削作業と覆工作業を並行して行える利点がある。中央導坑先進全断面掘削になると、トンネル断面の中央付近の導坑を先に掘削したあと、全断面を掘削して一度に覆工を行う。中央導坑は第一立坑に貫通したが、その後労働力が逼迫してきており、第一立坑から第二立坑へ向けた掘削に全力を投入しなければならなくなったこともあり、一時的に1号潜函からの工事は中止することになった。 第一立坑から第二立坑へ向かって掘削を開始し、立坑から58.6メートルのところまで中央導坑が進んでいた1942年(昭和17年)10月13日23時15分ごろ、大音響とともに掘削中のトンネル真上に位置する地上のコンクリート混和場から猛烈に土砂が吹き上げる噴発事故が発生した。吹き上げた土砂は高さ最大20メートルに及び、このために坑内の気圧は大幅に低下することになった。坑内は広い範囲で崩壊し、地上では地面が約2メートル沈下した。事故時は作業員の交代時刻にあたっており、掘削作業現場には誰もいなかったが、約10人がコンクリートの型枠内で次のコンクリート作業の準備を進めているところであった。事故後ただちに点呼を行ったところ、5名が不明であることが判明した。全従業員で救助坑を掘削して救助活動を行い、5名全員を事故から52時間後までに収容したが、5名とも殉職した。崩壊現場付近は下り線工事の際に潜函工法で立坑を建設した場所にあたり、これに伴い地盤が緩んでいたところにコンクリート混和場の立坑を掘ったため、トンネル内の圧気に耐えられずに地上へ噴出する事故を起こしたものとされた。 噴発事故の復旧のために、第一立坑と1号潜函の間が貫通していたのをいったん埋め戻して隔壁を設け、第一立坑側は排気を行うことにした。坑内を排気して大気圧に戻すことにより、地下水の浸透で崩壊土砂を落ち着かせようとした。そして崩壊箇所について中の空洞を埋め戻す注入作業を行い、また噴発の原因となったコンクリート混和場を埋め戻し、陥没した地面も土砂を盛って埋め戻した。掘削の再開まで約2か月、完了までに約4か月の合わせて約6か月ほどかかる見込みとなり、時間がかかる見込みとなったため、第二立坑まで圧気工法での掘削が到達してからシールド工法を開始するのではなく、第二立坑から独自にシールド工法での工事を先行させることになった。 第一立坑との間を埋め戻した1号潜函側からの掘削現場では、中央導坑周辺の掘削を進め、1号潜函と2号潜函の間の壁を破って連絡する工事を進めた。そして第一立坑が再度圧気された際に気圧を合わせて第一立坑との間の接続工事を行った。 一方第一立坑から崩壊区間の掘削は、気圧を下げて頂設導坑式で慎重に進め、当初懸念していた再度の沈下や漏気はほとんどなく、予想していたよりも早く崩壊区間を通過することができた。第一立坑から100メートルほどまで前進したところで、水平部に気閘を新たに設置して第一立坑の排気を行った。以降は順調に掘削を進め、第二立坑側から逆に掘削した部分にも気閘を設置して圧気を行ったうえで、1943年(昭和18年)11月25日に貫通した。1944年(昭和19年)2月4日に覆工が完了し、2月11日に排気された。 圧気工法区間は1942年(昭和17年)4月1日着工、1944年(昭和19年)4月30日竣功となった。
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