上り線門司方シールド工法部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)
「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「上り線門司方シールド工法部」の解説
上り線トンネルのシールド工法は第二立坑から発進するもので、当初は圧気工法が第一立坑から第二立坑に到達した後にシールドを発進させる予定であったが、圧気工法区間での噴発事故の発生で到達が遅れる見込みになったことから、シールドが単独で先行することになった。下り線トンネルと同様、上り線トンネルの発進立坑も曲線区間にあり、下り線での経験からシールドの曲線での推進にも自信を得ていたが、立坑内でシールドの推進力を後ろの壁に伝えるために仮組してある環片が移動しないように、発進時は直線で推進して、シールド全体が地中に入ってから曲線へ推進させることになった。 下り線トンネルでは、シールドマシンを組み立てて発進させる台が沈下してしまったことから、上り線ではコンクリートを用いた台を用意し、結果的にまったく沈下せずに済んだ。シールドの製作と組立作業は一括して三菱重工業に請け負わせて実施し、立坑完成後すぐの1943年(昭和18年)1月に組立に着手し、下り線で2か月ほどかけた作業が1か月で完了した。シールドの装備品についても、下り線の経験を反映して改良されたものとした。すべての準備作業に、下り線では約6か月を要したが、上り線では約4か月で完了し、1943年(昭和18年)5月7日から圧気を開始し、5月10日からシールドの推進を開始した。 下り線での経験ではズリのトロッコへの積み込み作業で進行速度が制約されていたため、上り線においては空気圧動作式のズリ積み機を用意した。下り線ではズリ積み機がなく、手作業でのズリ積み込み作業を楽にするため、シールドの中段にズリを貯めて下段に押し込んだトロッコに落とし込む作業を行っており、このためにシールド推進後環片組立作業中にもズリの積み込み作業を行わねばならず、作業が輻輳して時間を要していた。上り線では下段にズリを落としてズリ積み機で処理するようになったため、ズリ処理のために掘削を中止する必要はなくなり、環片組立作業中は全力で前方の掘削を行えるようになり、またズリ積み込み作業のために環片組立作業を中断する必要もなくなった。こうして効率的になった結果、1輪環がわずか3時間で進行したことさえあった。 7月12日にシールド推進作業を中断して第1隔壁の構築作業に取りかかった。7月28日に立坑内の排気を行った。排気後、立坑内の蓋を撤去し昇降機の設置を行い、シールド発進に用いた仮組環片の撤去を行った。9月1日にシールドの推進が再開された。それまで立坑のデリッククレーン1台に頼ってズリの搬出を行っていたため、1日2.5輪環の進行が限界であったが、坑内外の連絡設備が完成したことで、もっぱら進行は坑内の作業によって決まるようになった。何らかの機械の故障に何度も見舞われながらも、10月に入ると順調に進行するようになり、1日5輪環の進行を普通に出せるようになって、さらに成績が向上して行った。 下り線トンネルにおいては貝殻層において漏気が激しくなって一時シールドの停止を余儀なくされたことから、上り線トンネルにおいては試掘坑道からのボーリングで地質調査が入念に実施され、事前に薬液の注入を行った。10月16日からまず洪積層に突入し、圧気で区切られている区間の長さや残りの掘削距離を考慮して10月末から第2隔壁の構築を行った。11月に入るといよいよ貝殻層に入り、湧水の増加を抑え込むために坑内気圧を上昇させて進行したが、漏気量は少なく薬液注入の効果もあって順調に進行することができた。次第に岩盤層に入り、12月20日の時点で切羽が511K181M50に到達した。この時点で下関方からは底設導坑が511K160Mまで到達しており、残り21.5メートルとなった。下関方では貫通に備えて、気閘を設置して圧気をかけて準備し、さらに底設導坑を511K168Mまで推進したが、これ以上の掘削を断念して待機することになった。 12月31日9時、門司方からシールドによる体当たりで貫通した。そのままさらにシールドで前進を続け、用意してあった環片を使い切る第494輪環まで進めて1月27日にシールド工法を終了した。以降、覆工や清掃、排気、シールドの解体と隔壁の撤去などを進めた。 シールド工法部は、1943年(昭和18年)5月4日着工、1944年(昭和19年)8月8日竣功となった。
※この「上り線門司方シールド工法部」の解説は、「関門トンネル (山陽本線)」の解説の一部です。
「上り線門司方シールド工法部」を含む「関門トンネル (山陽本線)」の記事については、「関門トンネル (山陽本線)」の概要を参照ください。
- 上り線門司方シールド工法部のページへのリンク