上り線下関方海底部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:37 UTC 版)
「関門トンネル (山陽本線)」の記事における「上り線下関方海底部」の解説
上り線下関方海底部は延長869.5メートルで、下り線の建設時の経験に基づき施工計画を行った。工事をしていない斜坑の数をなるべく減らすため、試掘坑道から本坑に取りつく斜坑の数はなるべく減らしたいという考えがあり、結果的に上り線では斜坑は2か所になった。難関となる第三紀層地帯については圧気工法の採用も検討したが、下関方には圧気工法の経験のある者がほとんどいなかったこと、下り線建設時のセメント注入がよく回っていると判明したことなどから、セメント注入で固めながら掘削していく方針となった。 第一斜坑は、第三紀層地帯より下関方の510K490Mに、高さ2.8メートル、幅2.5メートルの断面で本線に直角に建設した。1942年(昭和17年)2月から4月にかけて建設し、上り線トンネルに切り上がった。第二斜坑は地質の良好な510K820Mに、やはり高さ2.8メートル、幅2.5メートルの断面で、本坑トンネルと40度をなす角度で斜めに建設した。この配置は第三紀層地帯に圧気工法を適用することを考慮したもので、門司方からの送気が可能なような向きで建設した。1942年(昭和17年)2月に着手し3月に完了した。 立坑から第一斜坑までの207.5メートルは、下り線同様に地質が良好と考えられ、通常通り底設導坑を先進させる形で掘削した。1942年(昭和17年)1月20日に立坑側から着手し、途中第一斜坑側からも底設導坑を推進して、4月に貫通した。以降切り広げを進め、12月に頂設導坑が貫通し、1943年(昭和18年)7月に完成した。 第一斜坑と第二斜坑の間は、約180メートルにわたって地質の悪い第三紀層地帯があり、この区間については頂設導坑を先進させた。1942年(昭和17年)4月に第一斜坑側から着手し、約10メートル底設導坑を進めたあと、510K495M付近において頂設導坑に切り上げて前進した。同じく4月に第二斜坑からも第一斜坑へ向けて着手し、約70メートル、510K751M付近まで底設導坑を進め、以降頂設導坑に切り上がって前進した。12月5日に510K707M地点において湧水を見たため、急遽埋め戻して隔壁の構築を行った。この後、2か月半にわたりセメント注入を行ったあと再度前進し、安全に元の位置まで到達することができた。以降順調に掘削を進めたが、双方から掘削して貫通させると覆工のない区間が長くなって危険なため、第二斜坑側から掘削した導坑の510K656M付近において隔壁を設置して、内部にセメント注入を行い、以降は第一斜坑側からの貫通を待った。1943年(昭和18年)9月15日に隔壁を爆破して頂設導坑が貫通した。以降、切り広げと覆工を進め、1944年(昭和19年)3月までに完了した。 第二斜坑から門司方へは1942年(昭和17年)7月に着手した。地質は良好で、途中地質が悪化してセメント注入を行った区間もあったが、おおむね順調に掘削を進めた。門司方からシールド工法部が接近してきたため、圧気工法に備えて気閘を準備したが、シールド工法区間との距離が10メートル程度となったことから、掘削を中止して圧気をかけて待機し、1943年(昭和18年)12月31日に511K167Mにおいて発破を行って貫通した。以降順次切り広げと覆工を進め、1944年(昭和19年)4月までに完了した。 上り線トンネル下関方海底部は、1940年(昭和15年)12月1日に着工し、1944年(昭和19年)8月8日竣功となった。
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