ヴェネツィアに対する最初の反乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 17:31 UTC 版)
「ヴェネツィア領クレタ」の記事における「ヴェネツィアに対する最初の反乱」の解説
既に1212年に、アギオステファノス家(Hagiostephanitai)の兄弟が、恐らく最初のヴェネツィア人植民者の到着とクレタ島の貴族および正教会の資産没収のためにラシティ高原(英語版)で反乱を起こしていた。この反乱はすぐにクレタ島の東部全域に広がり、ナクソス公(英語版)マルコ1世サヌード(英語版)の介入によってようやく鎮圧された。マルコ1世とティエポロはその後対立し、マルコ1世はこの島を自分自身のために征服することを試みた。マルコ1世は強力なアルコンのセバストス・スコルディリス(Sebastos Skordiles)を含む現地人からかなりの支持を獲得した。彼はカンディアさえ奪取し、ティエポロは女装してすぐそばのテメノスの要塞へと逃げ延びた。その後ティエポロはヴェネツィア艦隊の来援によってカンディアを奪回し、マルコ1世は金銭および食料と引き換えにこの島から退去することに同意した。マルコ1世に組した20人のギリシア人領主が、彼に同行してナクソス島に移った。 この最初の反乱の失敗はクレタ人の反感を打ち払うことはなかった。1217年、スコルディリス家(Skordiles)の所有する数頭のウマと牧草地がモノパリ(Monopari、ヴェネツィア語:Bonrepare)のヴェネツィア人レクトール(英語版)に奪われ、クレタ公パオロ・クェリーニ(英語版)がこれを適切に処理しなかったことで、ギリシア人貴族コンスタンティノス・スコルディリス(Constantine Skordiles)とミカエル・メリッシノス(Michael Melissenos)率いる大規模な反乱が発生した。上シュビリトス(Upper Syvritos)と下シュビリトス(Lower Syvritos)という二つの山岳地区を拠点に反乱軍は繰り返しヴェネツィア軍を撃破し、間もなく反乱はクレタ島の西部全域に広がった。反乱を抑える力が無いことが証明され、ヴェネツィア人は交渉に望みを繋いだ。1219年9月13日、クレタ公ドミニコ・デルフィーノ(Domenico Delfino)と反乱軍の指導者たちは条約を取り結び、ギリシア人貴族に対して封地と様々な特権が与えられた。75人の農奴(serfs[訳語疑問点])が解放され、パトモス島の神学者聖ヨハネ修道院のポドヴォリエの特権が確認された。またヴェネツィア市民はクレタ人平民(villani)に対する犯罪の処罰について責任を持つことになった。これと引き換えに、クレタ人の貴族たちはヴェネツィア共和国に対する忠誠を誓った。この条約は、クレタ島の現地貴族がヴェネツィア人植民者の貴顕と同等の立ち位置を形成するという重大な影響を与えた。だが、1222年の第2回目の植民者たちの到着は、再びテオドロス・メリッシノスとミカエル・メリッシノスの指揮による反乱を引き起こした。ヴェネツィア当局はもう一度反乱軍の指導者たちと条約を結び、二つの封地について彼らに譲歩した。 新たな反乱が1228年に勃発した。スコルディリス家とメリッシノス家(Melissenoi)だけではなく、アルコレオス家(Arkoleos)とドラコントプロス家(Drakontopoulos)がこれに関与した。両方の陣営が外部勢力に支援を求めた。クレタ公Giovanni Storlandoはマルコ1世サヌードの息子、アンジェロ・サヌード(英語版)に支援を求め、クレタ人たちはギリシアのニカイア帝国に支援を求めた。33隻のニカイア艦隊がクレタ島に到着し、1230年代にはニカイア軍はクレタ島の大部分の地域でヴェネツィアの支配に対抗して軍団を駐留させることができた。1233年、1234年、1236年に結ばれたヴェネツィアとクレタ人の一連の条約は現地の貴族たちに新たな特権を与える譲歩をして終わった。ドラコントプロス家(Drakontopouloi)のみは、なおもニカイア軍の残党(アナトリコイ、Anatolikoiともよばれた)と共にミラベッロ(英語版)(現在のアイオス・ニコラオス)の要塞を拠点に戦いを続けた。それはロードス島の自律的なギリシア人支配者レオン・ガバラス(英語版)の支援によってのみ維持可能であり、ヴェネツィア人は1236年にニカイア軍を小アジアへ撤退させることに成功した。その後のドラコントプロス家(Drakontopouloi)の運命は不明であり、彼らはもはや史料に登場しない。
※この「ヴェネツィアに対する最初の反乱」の解説は、「ヴェネツィア領クレタ」の解説の一部です。
「ヴェネツィアに対する最初の反乱」を含む「ヴェネツィア領クレタ」の記事については、「ヴェネツィア領クレタ」の概要を参照ください。
- ヴェネツィアに対する最初の反乱のページへのリンク