ヴェネツィアによる征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/02 17:31 UTC 版)
「ヴェネツィア領クレタ」の記事における「ヴェネツィアによる征服」の解説
ヴェネツィアはクレタ島と長い交易関係の歴史を持っていた。繰り返し発布されたビザンツ帝国の金印勅書によってギリシア全域の都市と島々においてヴェネツィア人は関税を免除されていたが、クレタ島も免除を受けた島々の1つであった。これは(およそ1130年頃の慣習を成文化した)1147年に始まり、ついに1198年にアレクシオス3世との条約によって確認された。この特権の対象となった地域の大部分が1204年4月の第4回十字軍によるコンスタンティノープル占領の後のビザンツ帝国分割においてヴェネツィア共和国領とされた。これにイオニア諸島、サロニカ湾、そしてキュクラデス諸島が加わり、またヴェネツィアはギリシア本土に海上貿易の拠点として有益ないくつかの海岸地域を勝ち取った。最終的に1204年8月12日、ヴェネツィア人は商売敵であったジェノヴァ人を出し抜いて、モンフェッラート侯ボニファッチョ1世からクレタ島を獲得した。ボニファッチョ1世はアレクシオス4世によってこの島の所有権を約束されていが、実際にはその権利をわずかにしか行使できなかったので、1,000枚の銀貨、島の歳入として得られる合計10,000枚のhyperpyra貨、そしてテッサロニキ王国獲得に対するヴェネツィアの支持と引き換えにクレタ島に対する権利を売り払った。数週間後、ヴェネツィアの獲得領土はビザンツ領分割についての取り決め(英語版)(Partitio terrarum imperii Romaniae)で公式化された。 ヴェネツィア人は自身の獲得した権利を現実の権力として行使するため、クレタ島の沖合にあるスピナロンガ島に小規模な軍を上陸させた。しかし既にクレタ島に植民地(colony)を持っていたジェノヴァは迅速に行動した。ジェノヴァはエンリコ・ペスカトーレ(英語版)の指揮と現地の民衆の支持の下で間もなくクレタ島の東部と中央部の支配権を握った。1207年のラニエリ・ダンドロ(Ranieri Dandolo)とルッジェーロ・プレマリノ(Ruggiero Premarino)が指揮する最初のヴェネツィアの攻撃は排除され、続く2年間にペスカトーレはいくつかの孤立したヴェネツィアの守備隊の駐留地を除き、島全体を支配下に置いた。ペスカトーレはクレタ島の正式な王としての承認を得ることを試み、ローマ教皇に請願さえした。しかし、ヴェネツィアはクレタ島を占領することを決定し、ペスカトーレはジェノヴァ本国からほとんど支援を受けることができなかった。1209年、ヴェネツィアはカンディア(ギリシア語:ハンダクス、Χάνδαξ。現代のイラクリオン、Ηράκλειον)にほど近いパレカストロ(英語版)の占領に成功した。クレタ島からペスカトーレを排除するには更に1212年までかかり、その副官(lieutenant)のアラマンノ・デ・コスタ(英語版)は更に長い期間、島に踏み止まった。クレタ島を巡るヴェネツィアとジェノヴァの戦争は、1217年5月11日の条約においてヴェネツィアがクレタ島を所有することを確定して終わった。
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