ヴェネツィアの聖セバスティアヌス
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「聖セバスティアヌス (マンテーニャ)」の記事における「ヴェネツィアの聖セバスティアヌス」の解説
マンテーニャによる3作目の『聖セバスティアヌス』は数年後(1490年頃、または1506年頃)に描かれた。しかし、一部の美術史家は、『カエサルの凱旋』とほぼ同じ時期、または画中の大理石が疑似大理石のコーニスを彷彿とさせるため、それよりも前のパドヴァ時代に制作されたとしている。この『聖セバスティアヌス』は現在、ヴェネツィアのカ・ドーロ内のフランケッティ美術館にある。以前の構図とはかなり異なり、著しい悲観主義を示している。立派で、拷問された聖人像は、茶色の、何もなく、奥行きのない背景の前に描かれている。画家の作品に込めた意図は、右下隅にある消えたロウソクの周りにある巻紙よって説明される。そこには、ラテン語で次のように書かれている。「Nihil nisi divinum stabileest. Caetera fumus」(神以外に安定したものはない。それ以外は煙である)。人生の儚さのテーマは通常セバスティアヌスの絵画とは関連していなかったので、碑文が必要だったのかもしれない。聖人の足に交差する矢印が形成する「M」の文字は、モルテ(morte=イタリア語で「死」)、またはマンテーニャを表しているのかもしれない。 本作は、1506年にマンテーニャが亡くなった後、その工房に残っていた作品の1つとして特定化されている。 16世紀前半、作品はパドヴァにあったピエトロ・ベンボ枢機卿の家で、マルカントニオ・ミキエルが見たものである。ベンボ枢機卿の相続人を介して、1810年に解剖学者で外科医のアントニオ・スカルパがパヴィアにあった自身のコレクションのために購入した。1832年にスカルパが亡くなると、本作はスカルパの兄、続いてモッタ・ディ・リヴェンツァ(トレヴィーゾ)にいたスカルパの甥に受け継がれ、1893年にカ・ドーロのためにジョルジョ・フランケッティ男爵に購入された。 男爵は、1916年にカ・ドーロの収蔵品とともに本作をヴェネツィアの町に遺贈した。
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