ヴェネツィアへの寝返りとミラノとの戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 15:27 UTC 版)
「フランチェスコ・ブッソーネ・ダ・カルマニョーラ」の記事における「ヴェネツィアへの寝返りとミラノとの戦争」の解説
ブッソーネはこれを酷い侮辱と受け止め、フィリッポ・マリーアに直談判しようとしたが失敗した。すると彼は1425年に自分の任務を投げ出し、ヴェネツィア共和国に仕えるようになった。当時ヴェネツィアはヴィスコンティ家の野心的な拡大政策に脅かされており、新元首(イタリア語版、英語版)フランチェスコ・フォスカリはフィレンツェ共和国がミラノ公国と結ぶことも恐れていたため、ブッソーネの寝返りを歓迎した。ブッソーネはフォスカリに、自分はミラノにおいて本来指揮するべき規模の軍隊を与えられなかったと話し、今がヴィスコンティ家を攻撃する好機であると説いた。好戦的な性格のフォスカリはこの主張を容れて、1426年にブッソーネを聖マルコ総司令官に任じ、ミラノに宣戦布告した。 ヴェネツィアは戦争の早期終結を望んでいたが、ブッソーネは傭兵の性として、自分たちの仕事を確保し仲間の捕虜を解放するために、決定的な勝利をおさめることを避けて戦争を長引かせた。ヴェネツィアとミラノは、時には勝ち時には負けるのを繰り返し、休戦が結ばれてもすぐに破られ、明確な勝者が現れないまま延々と戦争を続けた。 1427年のマクロディオの戦い(イタリア語版、英語版)でブッソーネは大勝利を挙げたが、それを戦争の勝利につなげようとはしなかった。彼の怠惰な戦いぶりにしびれを切らしたヴェネツィア政府は、ブッソーネに莫大な報酬とミラノ市を含む広大な領地を約束し、ブッソーネの意欲をかき立てようとしたが、無駄だった。一方でヴィスコンティ家も、ブッソーネにヴェネツィアを裏切れば莫大な報酬を支払うという使者をひっきりなしに送っていた。ブッソーネは昔と今の雇用主をもてあそび、自分が両国の運命を握っているのだという虚栄心を膨らませた。しかし、ヴェネツィアはもてあそぶにはあまりにも危険な主人であった。ついにヴェネツィア政府は我慢の限界に達し、十人委員会においてブッソーネを裁判にかけることに決した。
※この「ヴェネツィアへの寝返りとミラノとの戦争」の解説は、「フランチェスコ・ブッソーネ・ダ・カルマニョーラ」の解説の一部です。
「ヴェネツィアへの寝返りとミラノとの戦争」を含む「フランチェスコ・ブッソーネ・ダ・カルマニョーラ」の記事については、「フランチェスコ・ブッソーネ・ダ・カルマニョーラ」の概要を参照ください。
- ヴェネツィアへの寝返りとミラノとの戦争のページへのリンク