リンチへの報復(世良田村事件)
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「世良田村事件」の記事における「リンチへの報復(世良田村事件)」の解説
世良田村では上記事件の前、1923年から水平社の糺弾に対抗すべく、茂木高十郎の主唱で、下原を除く12の字(あざ)、すなわち 西今井 世良田 粕川 出塚 三ツ木 徳川 平塚 米岡(南北) 境 女塚 小積田 神矢島 の村民による自警団が結成されていた。この自警団は、関東大震災(1923年9月1日)における混乱を意識して作られたものであった。 下原部落では下新田の一般民の動向を怪しみ、松島松蔵・橋本新助・松島幸八ら数名の部落民がおのおの棍棒を携えて下新田区長の栗原岩吉に押しかけ、表障子を押し開いて「親爺いたか」と怒鳴りこんだ。これがきっかけで下新田の一般民と下原部落の住民の間に衝突乱闘が始まった。下新田の自警団を中心として、1925年(大正14年)1月18日の晩に12の字から約2000人の農民が手槍や日本刀やピストルや棍棒を持って集結し、松島松蔵らに「チョウリンボウ出て来い、決死隊があるなら出て来い」などと叫び、翌朝にかけて23戸120人の下原部落を襲撃、これにより36名の負傷者が出た。その内容は、以下の通りであった。 自警団の富岡学治らが「下原部落を総攻撃するのだ」と言いながら松島キン方を襲い、裏手の雨戸を竹槍で破壊する。 自警団の小幡愛三らが金棒を携え、松島才治郎方を襲い、「恨みを晴らすはこの時だ」と怒号しながら才治郎を殴打する。 自警団の小林寅造らが手鳶を携え、「チョウリンボウやってしまえ」と叫びながら松島才治郎方を襲撃。 自警団の清水新三郎らが竹槍を携え、松島カツ方を襲い、松島粂蔵に「この野郎が御大だ、ぶっ殺してしまえ」と叫びながら粂蔵を殴打。さらに松島才治郎方・松島三五郎方・松島鶴松方に押し寄せ、「チョウリンボウ根絶やし」と怒号。 自警団の城田親蔵が金槌を携え、橋本梅吉方を襲い、「糺弾の恩返しだ」と怒号しつつ金槌で橋本家の表雨戸を破壊。 自警団の茂木勇らが長さ5尺ほどの竹棒を携え、松島鶴松方で松島幸八に「平素口やかましきことを言いながら、口先ばかり詫びて済むか」と難詰。 水平社も埼玉県から援軍を呼んで反撃した。これにより下原部落の複数住民が負傷した他、部落民の住宅が破壊され、家財を焚火に放り込まれた。 この結果、一般民の側からは153名が検挙され、うち76名が騒擾罪で起訴され、懲役刑19名(最高6ヶ月、うち執行猶予9名)、罰金49名、無罪8名となった。 世良田の一般地区の者は、事件の背景について「糾弾が原因」、「(水平社による)暴力行為があったのに、警察が何もしないから」、「やむにやまれずという気持ち」、「こっちにしてみれば、何を今頃んなって、糾弾している時は何もしねぇでという気持ちがあるかんな。司法(警察)が介入して糾弾を止めさせることができねぇんだから。警察に対する恨みみたいなのもあったさ」と説明している。また糾弾についても「吊るしあげだな」、「反省して、人間が変わるって、そう言わざるをえねえんじゃ」と述べている。また、暴徒の出自についても「だいぶ応援に来てね、普段見ねえ人が。よそからの人が派手に暴れたのさ」としている。 検事長谷川寧は『水平運動並に之に関する犯罪の研究』で「世良田村に於ける部落襲撃事件の如きは、徹底的糺弾の薬がききすぎて普通民の反感を買った結果であることは、何人も認むる所である。水平運動に対する頂門の一針であり、暁に響く警鐘であらねばならぬ。心せよ水平社同人、古諺に『過ぎたるはなお及ばざるが如し』と、蓋し名言なる哉」と記している。 なお、部落解放同盟の立場から書かれた丸山友岐子『解放への飛翔』85頁には、この事件で通りすがりの行商人1名(一般民)が部落襲撃への加勢を断ったために暴徒に殺されたと記されているが、この行商人の阿久津隅之丞(当時47歳、字出塚の者)は重傷を負っただけで死んではいない。
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