リンカーン記念堂公演
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「マリアン・アンダーソン」の記事における「リンカーン記念堂公演」の解説
1939年、「アメリカ革命の娘たち」(Daughters of the American Revolution; DAR)は同団が所有するコンサートホール(DAR Constitution Hall)でアンダーソンが人種を隔てない聴衆に向かって歌うことを許可しなかった。当時のワシントンD.C.は人種隔離の残る街で、黒人のパトロンたちはホールの後ろに座らされることに狼狽した。また、同ホールは当時のコロンビア特別区法がこうしたイベントのために必要と定めていた、人種隔離された化粧室を備えていなかった。さらに同区の教育局は白人専用高校の講堂使用申請も却下した[要出典]。 全米黒人地位向上協会の創設者のひとりでコロンビア特別区内の人種間委員会の議長だったチャールズ・エドワード・ラッセル(英語版)の招集により会議が開催され、これがマリアン・アンダーソン市民会議(MACC)を形成することになった。この市民会議は数十の組織、教会の長、市内の活動家からなり、中にはBrotherhood of Sleeping Car Porters、Washington Industrial Council-CIO、アメリカ労働総同盟、National Negro Congressが名を連ねた。MACCは2月20日にチャールズ・ハミルトン・ヒューストン(英語版)を議長に選出し、教育局を監視、請願署名を集めて次回の教育局の会議に合わせて大規模抗議行動を計画した。 引き起こされた怒りの結果として、ファースト・レディであったエレノア・ルーズベルトを含む数千人ものDARの会員が組織を脱会する事態となった。彼女はDARに宛てた書簡にこう記している。「偉大なアーティストに対しコンスティテューション・ホール使用を拒否する態度を取られたことに真っ向から反対します。(中略)あなた方には啓発の道を導く機会がありましたが、貴会はそれをし損なったように私には思われます。」 ゾラ・ニール・ハーストンはエレノア・ルーズベルトがコロンビア特別区教育局に対しての意見を公に表明していないことを非難した。特別区は民主主義議会の統制下にあり、アンダーソンのコンサートが計画された際にはじめは却下し、次に人種による隔離を実施しようとしたのである。 論争が広がりを見せるとアメリカの新聞はアンダーソンの歌唱する権利を大々的に擁護した。フィラデルフィア・トリビューン(英語版)紙は次のように書き立てた。「国を愛する心と堕落した心の区別もつかないヨボヨボの老婆の一団が、国家的無作法をはたらいて慈悲深いファースト・レディに頭を下げさせた。」南部の新聞にもアンダーソンを擁護するものがあった。リッチモンド・タイムズ・ディスパッチ(英語版)紙はこう書いている。「今日の人種的不寛容、すなわち第三帝国であからさまに示されたもの、D.A.R.の使用拒否のような行動(中略)は、いっそう嘆かわしく思われるのである。」 エレノア・ルーズベルトの要請により、大統領のフランクリン・ルーズベルト、当時全米黒人地位向上協会の幹事を務めていたウォルター・フランシス・ホワイト(英語版)、アンダーソンのマネージャーで興行主のSol Hurok、内務長官のハロルド・L・イケスがリンカーン記念堂の階段上での野外コンサートを計画した。開催は復活祭の日曜日にあたる4月9日、アンダーソンはいつものようにヴェハーネンの伴奏で現れた。『My Country, 'Tis of Thee』から歌い始められたこの演奏会は肌の色の異なる75,000人の群衆を魅了し、国中で何百万人もの人がラジオに耳を傾けた一大事件となった。 2か月後、ヴァージニア州リッチモンドで開催された全米黒人地位向上協会の第30回会議に合わせて全国放送のラジオ(NBCとCBS)でスピーチを行ったエレノア・ルーズベルトは、アンダーソンの優れた功績を称えて1939年のスピンガーン・メダル(英語版)を授与した。 この出来事を題材としたドキュメンタリー映画はアメリカ国立フィルム登録簿に選ばれている。
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