リンカーン暗殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 22:39 UTC 版)
「ジョン・ウィルクス・ブース」の記事における「リンカーン暗殺事件」の解説
詳細は「リンカーン大統領暗殺事件」を参照 ブースはジョージ・アツェロット、ルイス・パウエル、ジョン・サラット、マイケル・オローレン、エドマン・スパングラーなどの共犯者とともにリンカーン、ワシントンに帰還したグラント将軍の他多数の政府高官を同時に殺害する計画を立てた。しかし、グラント将軍夫妻は当日夕方に観劇を中止し不在であった。 1865年4月14日フォード劇場で『われらのアメリカのいとこ』(Our American Cousin)(イギリス貴族遺産相続にアメリカ人の甥がからむ喜劇)を観劇中のリンカーンに対し1.2mの至近距離からデリンジャーピストルで後頭部左耳後5cmに1発撃った。ブースは羅: “Sic semper tyrannis!”(専制者は常にかくのごとし、バージニア州のモットー)と叫び(「これで南部の報復は果たされた」と叫んだともいわれる)、共に観劇していたヘンリー・ラスボーン(英語版)少佐がとびかかるもナイフで腕を切って振り払い、バルコニーから舞台へと飛び降り、劇場の裏手に用意していた馬に乗って海軍基地の橋まで逃走した。この橋は夜9時以降通行禁止だったため、守衛のコップ軍曹に通行をとどめられたが、なんとかいいくるめて橋を渡った。このあと、南軍の協力者たちの家をわたりながら、ポトマック川を渡ることに成功した。しかし、深南部に逃げ込むという計画は果たせず、10日間の逃走と潜伏の後、4月24日にリチャード・ギャレットという男の農場にたどりついたが、25日夜にタバコ小屋の中で寝ていたところをギャレットの家族によって閉じ込められ、追ってきた29名の騎兵隊に包囲された。騎兵隊はブースに投降を呼びかけたが、ブースは拒否。やがてデイヴィッド・ヘロルドのみ投降し、エヴァートン・コンガー(英語版)大佐の指示によって小屋の周りに火がつけられた。その火によって照らされたブースを騎兵隊の一員ボストン・コーベット(英語版)軍曹が後方から射撃したため、このときの首の傷が致命傷になって4月26日朝、ブースは命を落とした。 ブースの死体と日記などの持ち物は汽船でワシントンに運ばれ、軍艦モントーク号(英語版)の甲板に保管した後、死体はスタントン陸軍長官の命令で、4月27日の夜、秘密警察本部長ベイカー(英語版)大佐、ベイカー中尉(大佐の甥ギャレットの農場に踏み込んだ警官)により秘密裏に埋葬された。このため自分がブースと主張する者が多くあらわれたという。1867年、ベイカー大佐の『特務機関の歴史』によれば以前の監獄の地下牢の床下に埋めたという。 ブースの日記については、裁判でスタントン陸軍長官は発見されていないとしていたが、のちに発見されたと裁判に提出した。ただし日記には暗殺事件の期間24ページが破られていた。
※この「リンカーン暗殺事件」の解説は、「ジョン・ウィルクス・ブース」の解説の一部です。
「リンカーン暗殺事件」を含む「ジョン・ウィルクス・ブース」の記事については、「ジョン・ウィルクス・ブース」の概要を参照ください。
- リンカーン暗殺事件のページへのリンク