リトアニアにおける抵抗運動とは? わかりやすく解説

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リトアニアにおける抵抗運動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/07 16:29 UTC 版)

リトアニア解放最高委員会」の記事における「リトアニアにおける抵抗運動」の解説

リトアニア1940年ソ連併合されたが、1941年6月ナチス・ドイツバルバロッサ作戦開始しソ連領に侵攻すると、リトアニア人多くソ連からの「解放者」としてドイツ軍歓迎した。しかしその後ナチス・ドイツリトアニア独立認めないことが明らかになると、リトアニア人態度その後急変し1941年末から1942年初めにかけて様々なナチス抵抗運動組織された。1942年から1943年の間にこれらの運動カトリック系民族評議会リトアニア語: Tautos taryba)およびリトアニア人最高委員会リトアニア語: Vyriausiasis lietuvių komitetas)のもとに統一されていった。5カ月間の議論の末、両者政治思想越えてリトアニア解放最高委員会 (VLIK) という一つ組織統一されることとなった。VLIKには、民族主義連合キリスト教民主党農民人民連合社会民主党といった独立期政党所属していた政治指導者らが参加した1943年11月25日カウナス初会合が開かれ社会民主党所属していたステポナス・カイリース(リトアニア語版、英語版)が初代議長選出された。VLIKは、リトアニア独立回復されるまでのあいだ、亡命政府として活動することを目的とした。VLIKは、スウェーデンおよびフィンランド使節送りスイス駐在していたリトアニア人外交官との連絡続け、そしてナチスによる犯罪西側諸国伝えようとした。VLIKはまた、非合法新聞地下出版し、リトアニア人ナチス対す無為抵抗訴えた。彼らにとって最大の敵は、なおもソ連であった。彼らは第二次世界大戦終結した後にソ連西側諸国連合国とのあいだで紛争生じると考えており、その結果リトアニア占領から解放されるものと信じていた。そのため、ナチスに対して暴力的抵抗運動行わずソ連との戦い備えて資源蓄えていた。 1944年2月16日リトアニア独立記念日に、VLIKは以下の旨の宣言発出した。 「 解放後リトアニア民主主義共和国となるべきである。民主的に選ばれリトアニア国会召集されるまでのあいだ、リトアニア臨時国家憲法定め従い治められる臨時国家憲法1922年リトアニア憲法原則にしたがってVLIKが採択する。 」 1944年初め、VLIKがストックホルム送った使節エストニアゲシュタポ逮捕されたことにより、その後4月29日から30日にかけて、VLIKのメンバー8名が次々と逮捕された。 独ソ戦ソ連巻き返しソ連バルト諸国勢力下におさめると、VLIKメンバー多くドイツへ渡った。そのため、リトアニアでの活動終了しその後海外活動続けていくこととなった。VLIKは、メンバーのうち3名をリトアニアとどめておくこととしたが、リトアニアとどまったのは結局1名のみだった。リトアニアとの連絡手段切断されリトアニア残っていたレジスタンスとのやりとりが行えなかったことが原因であった

※この「リトアニアにおける抵抗運動」の解説は、「リトアニア解放最高委員会」の解説の一部です。
「リトアニアにおける抵抗運動」を含む「リトアニア解放最高委員会」の記事については、「リトアニア解放最高委員会」の概要を参照ください。

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