リトアニアにおける抵抗運動
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「リトアニア解放最高委員会」の記事における「リトアニアにおける抵抗運動」の解説
リトアニアは1940年にソ連に併合されたが、1941年6月にナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を開始しソ連領に侵攻すると、リトアニア人の多くはソ連からの「解放者」としてドイツ軍を歓迎した。しかしその後、ナチス・ドイツがリトアニアの独立を認めないことが明らかになると、リトアニア人の態度はその後急変し、1941年末から1942年初めにかけて様々な対ナチス抵抗運動が組織された。1942年から1943年の間にこれらの運動がカトリック系の民族評議会(リトアニア語: Tautos taryba)およびリトアニア人最高委員会(リトアニア語: Vyriausiasis lietuvių komitetas)のもとに統一されていった。5カ月間の議論の末、両者は政治思想の枠を越えてリトアニア解放最高委員会 (VLIK) という一つの組織に統一されることとなった。VLIKには、民族主義連合、キリスト教民主党、農民人民連合、社会民主党といった独立期の政党に所属していた政治指導者らが参加した。 1943年11月25日にカウナスで初会合が開かれ、社会民主党に所属していたステポナス・カイリース(リトアニア語版、英語版)が初代議長に選出された。VLIKは、リトアニアの独立が回復されるまでのあいだ、亡命政府として活動することを目的とした。VLIKは、スウェーデンおよびフィンランドに使節を送り、スイスに駐在していたリトアニア人外交官との連絡を続け、そしてナチスによる犯罪を西側諸国に伝えようとした。VLIKはまた、非合法で新聞を地下出版し、リトアニア人にナチスに対する無為抵抗を訴えた。彼らにとって最大の敵は、なおもソ連であった。彼らは第二次世界大戦が終結した後にソ連と西側諸国の連合国とのあいだで紛争が生じると考えており、その結果リトアニアは占領から解放されるものと信じていた。そのため、ナチスに対しては暴力的抵抗運動は行わず、ソ連との戦いに備えて資源を蓄えていた。 1944年2月16日、リトアニアの独立記念日に、VLIKは以下の旨の宣言を発出した。 「 解放後のリトアニアは民主主義共和国となるべきである。民主的に選ばれたリトアニア国会が召集されるまでのあいだ、リトアニアは臨時国家憲法の定めに従い治められる。臨時国家憲法は1922年リトアニア憲法の原則にしたがってVLIKが採択する。 」 1944年初め、VLIKがストックホルムへ送った使節がエストニアでゲシュタポに逮捕されたことにより、その後4月29日から30日にかけて、VLIKのメンバー8名が次々と逮捕された。 独ソ戦でソ連が巻き返し、ソ連がバルト諸国を勢力下におさめると、VLIKメンバーの多くはドイツへと渡った。そのため、リトアニアでの活動は終了し、その後は海外で活動を続けていくこととなった。VLIKは、メンバーのうち3名をリトアニアにとどめておくこととしたが、リトアニアにとどまったのは結局1名のみだった。リトアニアとの連絡手段が切断され、リトアニアに残っていたレジスタンスとのやりとりが行えなかったことが原因であった。
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