リトアニアにおける宗教の歴史
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「リトアニアの宗教」の記事における「リトアニアにおける宗教の歴史」の解説
リトアニアの宗教は現在ローマ・カトリックが大勢を占め、他の宗教は少数となっている。しかし歴史的には多くの宗教が信奉されてきた。 もともと現在のリトアニアにあたる地域はバルト人の土地であり、彼らは独自の多神教信仰を持っていた。リトアニアがはじめ統一されてから14世紀半ば頃までは多神教の伝統に従って国家を組織していった が、それ以降はキリスト教が徐々にリトアニアに入ってくるようになる。農民層が中心のリトアニア人にカトリックが浸透するのは16世紀頃と言われている。 中世のリトアニア大公国は現在のリトアニアのほかベラルーシやウクライナの大半を含む広い領土を支配しており、主にスラヴ人が住んでいた東部地域では正教を信じる者も多くいた。他方、現在のリトアニアにあたる北西部では、はじめ多神教が、後にカトリックが最も信奉されてきた。また大公国ではそのほかイスラム教やユダヤ教の信仰なども広く認められてきた。さらに17世紀になると正教会の古儀式派もリトアニアに入ってくる。 18世紀末、当時のポーランド・リトアニア共和国は分割され、リトアニア地域はロシア帝国の領土となる。ロシア帝国の支配下ではのちにカトリックの信仰やリトアニア語の使用が禁止されることとなったが、その後の民族運動などではカトリックの信仰がリトアニア人の民族としての意識を高めるものとしてリトアニア語とともに用いられることとなる。 第二次世界大戦中はナチス・ドイツの侵攻を受けリトアニアはナチスの支配下に入る。ここではユダヤ教徒が迫害を受けることとなった。 また、第二次世界大戦後にはソヴィエト連邦(ソ連)の支配を受けることとなるが、そこでも宗教は弾圧された。宗教の撲滅を図るソ連の政策は「ジェノサイド」と比喩される。修道院や大学の神学部、神学校、その他宗教関連の新聞社や団体などが閉鎖され、神父などの宗教関係者が処刑や流刑されることとなった。そのため、ソヴィエトに支配されていると感じていたリトアニア人にとって、カトリックは民族のアイデンティティーとされてきた。 スターリンの死後は宗教弾圧は緩くなっていく。フルシチョフ時代には宗教活動を理由に逮捕されていた者が大勢釈放された。その後1990年代に入るとリトアニアは独立を回復する。 独立回復後の調査では、カトリックが国民の約8割を占めるなど依然多く、他の宗教・宗派は少数にとどまっている。しかし歴史的経緯から多くの宗教・宗派の教会などが国内各地に多く残されており、全国の教会分布地図なども多く市販されている。
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