リトアニアにて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 06:12 UTC 版)
「ダウマンタス (プスコフ公)」の記事における「リトアニアにて」の解説
1265年までダウマンタスは、リトアニア大公とリトアニア大公国北部のナルシェ(リトアニア語版)の公を兼任するミンダウガスの同盟者であり、ミンダウガスの妻とダウマンタスの妻は姉妹であった。このような義兄弟の関係にも関わらず、ダウマンタスはミンダウガスの甥でジェマイティヤの公であったトレニオタとの関係を深める。トレニオタは、ドイツ騎士団やリヴォニア騎士団に対する全バルト人の反乱の扇動を試みつつ、王国内で堅実に自身の力を伸ばしていった。 1263年にトレニオタはミンダウガスをその2人の息子とともに暗殺した。この事件はトレニオタとダウマンタスの共謀であると考えられている。結果、リトアニアはその後120年に及ぶ異教信仰に戻ることになった。いくつかのルーシの年代記は、2人のミンダウガス暗殺の動機について、トレニオタの権力欲と、1262年に王妃のモルタが死去した後にミンダウガスがダウマンタスの妻であったモルタの姉妹を強奪したことに対するダウマンタスの復讐心と伝える。ミンダウガスが大軍をブリャンスクに向けて派遣した時にダウマンタスは遠征軍に参加したが、すぐに帰国してミンダウガスをその2人の息子とともに殺した。 『ブィホヴィエツ年代記(英語版)』(後年に書かれ、信憑性に疑問がある資料)によるとダウマンタスは暗殺の報酬としてウテナ公の称号を得たとある。 ミンダウガスの長男であるヴァイシュヴィルガスはハールィチ・ヴォルィーニ大公国のシュヴァルナスと同盟したことにより、1264年にトレニオタを殺すことで父の仇討ちを果たし、ダウマンタスとその仲間はプスコフに逃れた。
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