リトアニアとの連合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/03 14:07 UTC 版)
「ポーランド・アンジュー朝」の記事における「リトアニアとの連合」の解説
「クレヴォの合同」も参照 ヤドヴィガを押したマウォポルスカ一派は、その結婚相手を別に探していた。それが当時、ベラルーシ・ウクライナをも支配下に置いた最大最後の異教国リトアニアであった。ポーランドとリトアニアの関係は、既にカジミェシュ3世がリトアニア大公ゲディミナスの娘と結婚することで始まっていた。ヤドヴィガ即位時のリトアニア大公ヨガイラは、キリスト教への改宗を考えていた。そのような時期にヨガイラに対して、ポーランド貴族からヤドヴィガとの結婚が要請されたのである。同時期にヨガイラにはモスクワ大公ドミトリイ・ドンスコイの娘との縁談もあった。ヨガイラは熟慮した結果、ヤドヴィガとの結婚を選んだ。 1385年にクレヴォの合同が結ばれ、ポーランド=リトアニア間の連合および全リトアニア人のキリスト教改宗が定められた。翌年にヨガイラは洗礼を受け入れ、名をヴワディスワフと改め、ヤドヴィガと結婚してポーランドの共同統治を始めた(ヤギェウォ朝の成立)。 なお、もう一人の婿候補であったシェモヴィト4世の娘であるツィンバルカはヴィルヘルムの弟エルンスト鉄公に嫁ぎ、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世を儲けている。
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