ヨーロッパ戦役
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フランスへ帰国したナポレオンは、ブリュメール18日のクーデタで政権を掌握、統領政府を発足させ、フランス共和国第一統領に就任した。ナポレオンはその後、第二次イタリア遠征を行い、再びオーストリアを屈服させ、次の矛先を再びイギリスに向けた。この後英仏関係は、講和へ向かい1802年にアミアンにおいて一時的な和約(アミアンの和約)が成立した。一時的に平和が訪れたかと思われたが、早くも翌年には相互にアミアンの和約が遵守されていないと非難しあう事態となり、早々にこの和約は破棄されてしまった。 更に翌1804年にナポレオンがフランス皇帝に即位すると、ヨーロッパ各国はこれを危険視し、再び対仏大同盟を結成した。以降ナポレオン戦争の性格はフランス王政を復活させ、アンシャン・レジームに戻す事から、次第にナポレオンを追放することを最終的な目標とする方向へと変わって行った。イギリスではナポレオンが皇帝に即位した事からフランス革命に共感する対仏穏健派の勢力が後退し、1804年に対仏強硬派のウィリアム・ピット(小ピット)が政権に立ち反ナポレオン色を鮮明にしていった。1805年、ナポレオンの大陸軍はアウステルリッツの戦いにおいてオーストリア、ロシア帝国を打ち負かしたもの、海軍はトラファルガーの海戦で、ネルソン率いるイギリス海軍に壊滅させられた。以降フランスの覇権は大陸に限定されたものとなり、ついにナポレオンはイギリス本土に攻撃の手を加えることは不可能となった。 1806年、イエナの戦い、アウエルシュテットの戦いでプロイセン王国軍を、翌年フリートラントの戦いでロシア軍を大敗させると、フランスは次の手としてイギリスをヨーロッパから孤立させるべく大陸封鎖令を発動し、イギリスの経済的孤立を画策したが、これは全くの逆効果で、かえってイギリスとの経済交流の場を喪失した大陸諸国の方が疲弊する結果となった。一方イギリスは反ナポレオン闘争に積極的に加担するようになり、ポルトガル、スペインにおける対仏ゲリラ戦を援助することになった。 こうした中で1812年のロシア遠征が失敗に終わると、大陸各国は一斉にナポレオンに対して反抗に転じた。イベリア半島戦争でも1813年、初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー率いるイギリス陸軍がヴィットーリアの戦いに勝利し、最終的にイギリスの勝利で幕を閉じた。東では同年ライプツィヒの戦いでフランス軍が大敗、1814年には連合軍がパリに入城し、ナポレオンをエルバ島へ追放した。 ナポレオン戦争後のヨーロッパの枠組みを話し合うべくウィーン会議が開かれたが、この会議は「会議は踊る、されど進まず。」と言われる状況であり、各国の利害が対立して会談が終結する見通しすら立たなかった。こうしたヨーロッパ各国の対立の空白を狙って、エルバ島からナポレオンが脱出。瞬く間にパリに駆け上がり、帝位に返り咲いた。ヨーロッパ各国は一旦対立の矛先を収め、ナポレオンを再びヨーロッパから追放することで結束。オーストリア軍は北イタリア、及びライン川方面に、プロイセン軍とイギリス軍はベルギーに展開を始めた。この時ベルギーでイギリス陸軍を率いていたのが、イベリア半島からフランスを追い出したウェリントンである。フランス軍と会敵したウェリントンは、後退させられながらもプロイセン軍の合流を受け、フランス軍を敗走させることに成功した。これがワーテルローの戦いである。ナポレオンは再び退位させられ、イギリス領セントヘレナ島へと追放された。
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