モンパルナスの狂乱の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:38 UTC 版)
「モンパルナス」の記事における「モンパルナスの狂乱の時代」の解説
第一次大戦でモンパルナスは徴兵や芸術家たちの帰国、戦場からの避難民の殺到で混乱するが、戦後は開放感と、神話化された芸術の聖地へ行きたいという世界中の若者の殺到で、戦前の貧困振りとは全く異なる風景が出現した。いわゆる狂乱の時代である。 1920年代のモンパルナスは毎日毎晩が華やかな祝祭で、酒や麻薬による乱痴気騒ぎが繰り返された。狂騒と喪失感が混ざり合った当時の雰囲気を、ヘミングウェーは後に遺作『移動祝祭日(英語版)』(1960年)で、「もし君が幸いにもパリで青春を過ごしたなら、残りの人生をどこで過ごしたとしてもパリは君についてくる。なぜなら、パリは移動祝祭日だから。」と述べている。詩人マックス・ジャコブは、彼はモンパルナスに「恥ずかしく罪を犯しに」やってきたと述べた。マルク・シャガールはモンパルナスに行った理由を説明する際、これをもっと優雅に要約している。「わたしは遠い国で耳にしていた物事を、自分のこの目で見ることにあこがれた。この眼の革命、この色の回転、想像上の線の流れの中で自発的に鋭く互いに合体してゆく。これはわたしの故郷の町では見ることができないものだった。あのとき芸術の太陽はパリだけを照らしていたのだ。」 狂乱の時代は1929年の大恐慌をきっかけに幕を閉じた。アメリカ発の大不況はフランスに及び、1930年には美術市場は暴落、同年「モンパルナスの王子」と呼ばれたジュール・パスキンが自殺して一つの時代の終わりを感じさせた。数人の芸術家は一旦パリを離れ、アメリカやメキシコ、アジアなどに長期旅行している。一旦はドイツから退廃芸術狩りを逃れた芸術家がパリに避難したものの、第二次世界大戦の開始により多くの芸術家がアメリカ合衆国などに逃げ、とりわけ1940年5月から6月のナチス・ドイツのフランス侵攻とパリ占領をもって芸術家コミュニティは解体した。そして戦後、美術の中心地を目指す各国からの芸術家の多くはニューヨークへ行き、パリの芸術家コミュニティはサンジェルマン・デ・プレへ移り、モンパルナスがその輝きを取り戻すことはなかった。 この地の歴史を展示するモンパルナス博物館(Musée du Montparnasse)が1998年、メーヌ通り21番地に開館した。パリ市のわずかな交付金で運営されているが、この博物館はNPO法人である。
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