モンパルナスの発展とは? わかりやすく解説

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モンパルナスの発展

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/12 20:45 UTC 版)

ラ・ロトンド」の記事における「モンパルナスの発展」の解説

1903年創業ラ・ロトンドは、もともと労働者相手大衆的なビストロであった当時モンパルナスは、まだ麦畑牧草地葡萄畑広がる田舎であり、1895年10月22日列車が駅に停車せずに、駅正面の壁を貫通して落下したモンパルナス駅鉄道事故フランス語版)以外に、ほとんど取り上げられることのない場所であった。モンパルナスの発展のきっかけは、1905年パリ警視総監が、ヴォージラール通りフランス語版)とモンパルナス大通りの間にある建物解体して、ラスパイユ大通り開通する許可出したことであり、1911年7月に、全長4 km上のヴォージラール通り最後部分完成しカルティエ・ラタン横断するサン=ミシェル大通りフランス語版)に通じサン=ジェルマン大通りモンパルナス大通りをつなぐラスパイユ大通り開通が行われた。そしてこれが、文学・芸術中心地としてのモンパルナス誕生契機ともなった。同じ1911年オーヴェルニュ出身のヴィクトル・リビオンがラ・ロトンド買い取り、さらに隣接する靴屋買収して常連向けのバー増設し、広いテラス設けた。 これ以前には、ピカソアメデオ・モディリアーニマックス・ジャコブらが住んでいた木造住宅洗濯船」を中心とするモンマルトル文学・芸術中心地であったが、1910年パリ北部モンマルトル南部モンパルナスをつなぐ地下鉄南北線」が開通したこともあり、彼らは次第モンパルナス移り住むようになった1911年作家芸術評論家のアンドレ・サルモン(フランス語版)がモンマルトルからモンパルナス越したとき、画家らは主に農家倉庫アトリエにしていた。

※この「モンパルナスの発展」の解説は、「ラ・ロトンド」の解説の一部です。
「モンパルナスの発展」を含む「ラ・ロトンド」の記事については、「ラ・ロトンド」の概要を参照ください。

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