モロッコの民主化運動
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「ジネブ・エル・ラズウィ」の記事における「モロッコの民主化運動」の解説
帰国後はモロッコの民主化運動に参加し、特に政教分離、信教の自由、女性の権利・地位向上のために闘った。 2009年、27歳のときに34歳の女性精神分析家イプティサム・ラシュガール(フランス語版)とともに個人の自由のためのオルタナティブ運動(フランス語版) (MALI)」を立ち上げた。これは、モロッコにおける市民的不服従、普遍主義、フェミニズム、政教分離、性と生殖の権利を求める運動であり、より具体的には信教・信条および性的指向の自由の実現を目指す運動である。この運動は後にラマダン期間中に「断食を行わない者たち (dé-jeûneurs)」のピクニックの企画、すなわち、イスラム教徒がラマダン期間中に「公共の場でこれ見よがしに」断食を破った場合に6か月の禁錮刑および200~500モロッコ・ディルハムの罰金刑に処せられることを定めたモロッコ刑法典第222条の廃止を求める抗議運動につながった(“dé-jeûneur” とは、英語の “breakfast” と同じく「断食 (jeûne) を破る(dé-)」という意味の「朝食を取る “déjeuner”」にかけた言葉である)。 2010年末にチュニジアで起こったジャスミン革命に端を発する反独裁政権運動「アラブの春」はモロッコにも波及し、民主化を求める抗議行動が活発化したが、ラズウィは政治・社会改革と憲法改正を求める「2月20日運動(フランス語版)」の主導者の一人であった。これ以降、フェイスブックで集まった若者を中心に定期的に全国一斉デモが組織されたため、国王ムハンマド6世はこれを受けて自らの権限を縮小する憲法改正を提案。2011年7月に新憲法が発布された。 2011年末に「モロッコ警察から嫌がらせを受けて」スロベニアに亡命し、亡命アーティスト・作家を支援する国際的な都市間ネットワークICORN活動により首都リュブリャナの招聘作家として1年間滞在した。この間、ラズウィはモロッコの独立系フランス語週刊新聞『ル・ジュルナル・エブドマデール(フランス語版)』(1997年創刊、2010年廃刊)に主に宗教的少数派やマラブー信仰に関する調査報告書を掲載したり、カイロにあるエジプト・フランス大学(フランス語版)の教員として「著作・研究方法」の講座を担当し、併せてカイロ研修中のサン・シール陸軍士官学校の学生に古典アラビア語を教えたりするなど、ジャーナリスト、教育者としても活躍し、さらに、フランスのフェミニズム活動団体「娼婦でも服従する女でもない(フランス語版) (NPNS)」でも一時期、中心的な役割を果たしている。
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