ムルシア遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:15 UTC 版)
「ハイメ1世 (アラゴン王)」の記事における「ムルシア遠征」の解説
後年の20年間では、婿のカスティーリャ王アルフォンソ10世に協力してムルシアのイスラム教徒と戦ったり(ムルシア征服(英語版))、そこで生じた貴族たちとの対立から発展した反乱の鎮圧に奔走したりと、多忙な日々を送った。背景には各地の法典整備を通じた王権強化に対する貴族の反発(後述)、カスティーリャに臣従していたグラナダ王ムハンマド1世のアルフォンソ10世に対する不信感からモロッコ・マリーン朝のアブー・ユースフ・ヤアクーブに援軍を要請、ヘレス、アルコス、メディナ=シドニアのムデハル(キリスト教国在住のムスリム)を扇動して反乱を起こさせたことなどが挙げられる。 1264年、ハイメ1世はアルフォンソ10世に嫁いだ娘ビオランテからの手紙で反乱と援軍要請の報せを受け取り、重臣たちと話し合いの上でコルテスを開き支持と援助を取り付けることから始めた。バルセロナのコルテスでは援助に賛成してもらったが、アラゴンのコルテスでは大貴族たちが援助に反対、軍資金徴税を求める王と反対する大貴族たちの論争は平行線を辿り、1265年に反乱を起こした貴族の討伐へと向かった。とはいえ反乱貴族は財産を王に差し押さえられ、王も軍を動員した6月は収穫期であり軍事行動が無理だったため、サラゴサ司教の仲介で両者は一時休戦した。 アラゴン貴族との対立に一旦区切りをつけると、2人の息子ペドロ(後のアラゴン王ペドロ3世)・ハイメ(後のマヨルカ王ジャウメ2世)に援軍を連れて来るように命じ、自身は10月にテルエルとバレンシアへ移動しつつ食糧調達の支援を獲得、反乱を起こした町と交渉して降伏を働きかけた。この方針でビリェーナ・ペトレルのムスリムを説得・降伏させ、11月にアリカンテで2人の息子やバルセロナ司教アルナウ・デ・グルブ(英語版)、大貴族たちを含めた全軍に訓辞を伝えた上で、町への調略を続けながらムルシアへ進軍、12月にエルチェの降伏も取り付けてオリウエラに到着・滞在した。ここで敵の輜重隊に遭遇しながらも、味方の準備不足の攻撃で相手に逃げられる苦い経験があったが、アルカラス(英語版)でアルフォンソ10世との会見を経て、1266年1月からムルシアを包囲した。 包囲中は戦闘はほとんどなく、使者をムルシアに派遣して降伏交渉を進め、約1ヶ月後の1月31日にムルシアを降伏させた。しかし戦後処理で住民とひと悶着あり、町のモスクの1つがキリスト教徒の物になることに住民の抗議が上がり、軍で威嚇して強引に承諾させた。そうして家臣たちと協議の末にムルシアをアルフォンソ10世へ引き渡し、ムルシアとバレンシア王国との国境の守備を固めた上でバレンシア・カタルーニャへと戻った。1266年と翌1267年はジローナとモンペリエを行き来しながら貴族間の係争を聴取、イルハン朝のハーン・アバカからの手紙を受け取ったりしていたが、休戦が切れた反乱貴族の討伐を再開、反乱の拠点リサナを投石機で攻撃、反乱側を戦意喪失させて降伏・処刑した。こうして反乱は鎮圧、タラソナでは偽金作りの噂を聞き、グループを捜査で摘発したりもしている。1268年は娘マリアに先立たれる訃報に接する一方で、末子のトレド大司教(英語版)サンチョに招待されトレドで過ごした。
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