マッケンジー・キングの時代
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「クラレンス・ハウ」の記事における「マッケンジー・キングの時代」の解説
1944年10月、マッケンジー・キングはハウを再建大臣に指名した。ハウはカナダの経済を変革させたことで、ソ連においてですら優れた評判があり、マッケンジー・キングはハウが新たな成功を掴むために民間事業に戻るようなことを恐れていた。ハウに留まるよう勧めた者には司法大臣のルイ・サンローランがおり、ハウと強力な関係を築いていた。マッケンジー・キングは1945年4月に議会を解散させた。その後の選挙では、自由党が保守党(進歩保守党と改名していた)やその他政党に対してぎりぎりの過半数を得た。ハウは自由党の資金集めに強く関わり、党の候補者のために全国を遊説した。自分の選挙区であるポートアーサーでは半数を超えたところで再選され、協同連邦党(現在の新民主党の前身)候補者を遥かに引き離していた。マッケンジー・キング自身はそのサスカチェワン選挙区で落選したが、数か月のうちにオンタリオ州で行われた補欠選挙で復活した。この時首相は70歳を超えており、疲れていた。 ハウはできるだけ早く平時経済に移行することを好んだ。不足していない製造業の大半は1945年遅くに政府の支配を離れた。労働者の指導者は失業を恐れ、戦時の政府工場の生産を続けることを望んだ。ハウはそのような提案に反対した。リサーチ・エンタープライズ・リミテッドから解雇された労働組合員がゴルフ場でハウと出逢ったとき、ハウは「リサーチ・エンタープライズ・リミテッドは戦時の工場だった。戦争が終わり、工場の役目は終わっている。貴方の組合は、...あなたの組合に起こることは貴方に掛かっている。ゴルフ場から出て行くんだ」と言った。ハウは不要になった政府の資産を処分するときに、鞍とハーネスがボーア戦争(1899年-1902年)終結以来貯蔵されているのを見つけ、人がその衛兵に雇われて、40年間以上それを磨き続けていたことが分かった。ハウはそのような過去の遺物を排除しようと務めた。しかし、経済統制を解除するのが鈍かった。ロバーツに拠れば、「彼は国の経済力を民間に戻そうとしたが、彼は議会に従属していたので、それまでの専制的権力を渡すのを渋っているように見られた」となっていた。1945年11月、ハウの戦時部局を統合して新しく再建供給省を結成し責任を持つことになった。 ハウは技術的に進んだ産業を支持することに決め、カナダが戦後も飛行機を生産し続けないという理由を見い出さず、続けさせた。エアクラフト・プロダクションの社長でありラルフ・ベルはハウに同意せず、カナダには飛行機用エンジンメーカーが無いことと、製造工場と熟練した労働者がいるにも拘わらず、その製品を売ることができるという保証が無いと主張した。それでもハウは飛行機製造を事業として続ける手段を選び、イギリスのホーカー・シドレー・グループがビクトリー・エアクラフトをA・V・ロー・カナダ(アブロ・カナダ)として肩代わりすることを認めた。一方、カナディアはアメリカを本拠にするエレクトリック・ボート社(後のジェネラル・ダイナミクス)に売却された。 戦後、マッケンジー・キングはイギリス政府から著名なカナダ人をイギリスの枢密顧問官に指名するよう求められ、それらの者に「ライト・オナラブル」の肩書を与えるものとした。マッケンジー・キングは2人の閣僚を推薦したが、ハウではなかった。1946年新年にこの栄誉が公表された後、ハウはマッケンジー・キングとの会見を要求し、ハウの戦中の奉仕が軽視されているので辞任したいと脅した。マッケンジー・キングはハウを落ち着かせ、6月にハウが枢密顧問官になる手配をした。このことで他の閣僚の間にさらに不信感を生むこととなり、1947年の新年にはさらに2人が顧問官になった。その後、マッケンジー・キングは新たな推薦を検討しないとした。 1947年2月、マッケンジー・キングは肺炎を患い、それから快復した後にはアメリカで1か月間休暇を過ごし、その間、当時は外務大臣だったサンローランを首相代行に指名していた。7月、国防大臣のブルック・クラックストンがマッケンジー・キングに、首相の年齢とその後継者が決まっていないという問題は自由党に政治的な困難さを生じさせていると警告した。マッケンジー・キングはハウと相談し、ハウはマッケンジー・キングがまだ力を持っている間で、危機が持ち上がる前に退陣するのが最善だと単刀直入に告げた。この対話の後、マッケンジー・キングは1年以内に退陣すべきだと判断し、サンローランを後継者とすべきと決めた。サンローランは内閣を去りケベックの故郷に帰ると脅していたばかりだった。ハウはサンローランに辞任しないよう説得した者達の中に入っていた。さらにサンローランを支援するために内閣に残ると言って、サンローランが党首になるよう説得もした。
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