マイスタージンガーの盛衰
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「マイスタージンガー」の記事における「マイスタージンガーの盛衰」の解説
マイスタージンガー芸術の中心となったのは、神聖ローマ帝国の帝国都市として繁栄したニュルンベルクである。文書で確認できるニュルンベルク最古のマイスタージンガーは、フリッツ・ケットナー(1392年 - 1430年在住、職業不詳)である。 ハンス・フォルツ(1435/40?年 - 1513年、外科医兼床屋)のもとで、ニュルンベルクのマイスタージンガー組合は隆盛期を迎えた。フォルツは1459年にヴォルムスから移り住んできたマイスターで、組合の先例遵守の旧弊を改め、新しい調べを生み出した者だけがマイスターになれるという決まりを導入したとされる。 16世紀に入ると、ニュルンベルクは人口5万人を数え、ケルン、アウクスブルクと並ぶドイツ屈指の大都会に発展する。また、マルティン・ルターが主導した宗教改革において、ニュルンベルクは「第二のヴィッテンベルク」といわれるほどのプロテスタント勢力となった。1530年、ルターはニュルンベルク市参事会書記のラツァルス・シュペングラーに宛てて「ニュルンベルクは全ドイツに輝く太陽」だと書き送っている。 宗教改革はマイスタージンガーたちの芸術にも影響を及ぼした。それまでカトリック信仰に根ざしたマリア崇敬を中心テーマとしていたニュルンベルクのマイスター歌は、ルターの教えを拡げる「プロテスタンティズムの道具」といわれるほどとなる。 この時期に登場したハンス・ザックス(1494年 - 1576年、靴屋)は、マイスタージンガーとして代表的な存在である。ザックスはルターの思想に傾倒しつつ、生涯に4,374篇のマイスター歌、約2,000の祝詞歌(Spruch)など多数の作品を発表した。上記ケットナーやフォルツ、ザックスは、19世紀リヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に登場する親方たちのモデルとなっている。 マイスタージンガーの最盛期には、ニュルンベルクの会員(Gesellschafter)は250名を数えた。しかし、マイスター歌に定められた煩雑な規則は硬直化の傾向を招き、彼らの芸術は次第に生命力を欠く独創性のないものとなっていく。 大航海時代と植民地獲得競争の幕が開くと、世界経済の中心は大西洋岸に移ってゆき、これに伴って南ドイツの帝国都市は衰退の一途をたどることになる。ハンス・ザックスの生前からすでに形骸化の兆しを見せ始めていたマイスタージンガーたちの活動は、規則と伝統に縛られたことに加え、内紛による士気低下が乱脈経営となって現れ、ニュルンベルク市当局は何度か「歌学校」の解散を命じるようになる。 他の帝国都市でも事情は変わらず、三十年戦争(1619年 - 1648年)を境として、マイスタージンガー組合はほとんど有名無実の存在と化していた。 1806年、ナポレオンによって神聖ローマ帝国が解体され、ニュルンベルクがバイエルン王国に編入されたときには、ニュルンベルク市の人口は25,000人に減少していた。こうした退潮の中で、ニュルンベルクでは1778年に組合が解散する。19世紀までわずかに残っていた他都市の組織も、1839年にウルム、1875年にメミンゲンが解散し、これを最後にマイスタージンガー組合は姿を消した。
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