フランス解放から終戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:10 UTC 版)
「フランスの歴史」の記事における「フランス解放から終戦まで」の解説
詳細は「パリの解放」、「ノルマンディー上陸作戦」、および「エピュラシオン」を参照 ドイツによる占領政策は日に日に苛烈になり、1942年以降には各地の植民地も次第に自由フランス側につくようになり、1942年11月8日のトーチ作戦によってフランス領北アフリカも喪失した。1944年6月には自由フランスと北アフリカのヴィシー軍が合同してフランス共和国臨時政府が成立し、ノルマンディー上陸作戦によってフランス本土には再び連合国軍が上陸した。6月22日にはパリの解放が行われ、ヴィシー政権は崩壊し、臨時政府はパリに帰還した。またこの時、ヒトラーはパリ防衛の責任者であったコルティッツに対して、パリの町中に仕掛けられた爆弾を起爆させ、パリを破壊するよう指示するが、破壊司令は結局、無視され、コルティッツらはそのまま投降した。1944年中にフランスの大半は奪還され、1945年のドイツ降伏によってフランス全土は再びフランス政府の手に戻った。 ドイツから解放されたフランス国内では、レジスタンスなどに関わっていた人々などによる、コラボラシオンに関わった人々に対する、追放や粛清(エピュラシオン)が横行し、暴行や殺害などが発生したことを受け、事態のエスカレートを危惧した臨時政府は大戦期の行動に対する「正義のための法廷」を設立したが、これを利用した、公式的なエピュラシオンは少なく、多くは私刑によって暴力をもって裁かれた。少なくとはいえ、臨時政府は12万人もの親独派とと考えられる人々を予防拘禁し、16万人に対して、対独協力行為に対して裁判を行なった。特にヴィシー政権の中枢であるペタン、ラヴァル、ダルナンなどは死刑宣告を受け、そのうちペタンは高齢のため、終身刑に減刑され、残り二人は死刑が執行された。また終戦に伴い、戦争捕虜や強制収容所、労働徴発などによってドイツなどに抑留されてきた230万人ものフランス人たちが帰国すると予想され、早急な社会的経済的な準備を迫られた。戦後すぐのフランスはこうしたエピュラシオンによる「敵」の排除とともに、「一部の親独派を除き、大多数のフランス人らは、積極的か消極的にレジスタンスに参加し、ドイツに勝利した。」という、実際の実情とはやや異なる、レジスタンス神話が形成され、臨時政府もこれを利用し、国民の和解や統合に利用した。1944年12月にはソビエト連邦との仏ソ友好条約が結ばれ、国内の共産党系レジスタンス組織との関係も深化した。 戦後すぐのフランスが直面した大きな問題として、ドイツの戦後処理問題が挙げられる。フランスは実際のところ、第一次世界大戦とは異なり、一度敗戦し、レジスタンスとして復活した経緯がある以上、ドイツの戦後処理問題に関して、大きな発言力を持てなかった。そのため、ド=ゴールはソ連に接近し、ド=ゴールが掲げる対独政策への支持を求めるも、ソ連はそれを拒み、1945年2月のヤルタ会談では、ドイツの戦後処理問題に対して、フランスの発言権を認めることと、国際連盟に代わって設立される国際連合の安全保障理事会の常任理事国とすることが決定された。
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