ビボ兄弟とアコマ・プエブロ
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「フロンティアのユダヤ人」の記事における「ビボ兄弟とアコマ・プエブロ」の解説
ソロモン・ビボ(Solomon Bibo, 1853年7月15日-1934年5月4日)は、ユダヤ人商人で、部族長に相当するアコマ・プエブロの総督となった。彼はプエブロ・インディアンの知事を務めた唯一の非先住民となった。 ビボはプロイセン王国のウェストファリアで11人の子供の6番目として生まれた。ドイツ革命後の弾圧をうけ、兄のネイサンとサイモンに次いでビボも1869年10月16日、16歳でニューヨークに到着。英語を勉強した後、サンタフェで兄弟に合流した。先駆者であるシュピーゲル家の資本提供を受け、ビボ兄弟はラグナやウインゲート砦などに交易所を立てた。 兄弟は、ドイツ語、イディッシュ語、英語に加えて、いくつかのネイティブアメリカンの言語も学び、地元の先住民からも良心的な取引で評判を確立した。部族の農産物を店舗で販売し、契約の下で米軍の砦に供給した。先住民は比較的公正な報酬を受け取り、農業技術を改善することができた。兄弟はまた、プエブロとメキシコ住民との間の土地紛争を調停し、また、英米人が市場価格以下で先住民の土地を購入するのを阻止しようと努力した。このようなビボ兄弟のスタンスは、アングロ系白人から好ましくないものとうけとられた。 1876年、ソロモン・ビボはアコマ・プエブロとアメリカ内務省との調停のために奔走した。政府はアコマの人たちが保有していると考えているよりはるかに少ない土地の権利を算出したので、アコマの人たちを助けるためにケレサン語を学び、実情を調査して兄のサイモンとともに内務省に何度か書面を送ったが、その交渉はうまくいかなかった。 1882年12月12日、難攻不落といわれている崖の上にあるアコマ・プエブロとの交易ライセンスを内務省に申請し、最初のアコマの交易所を設立した。アコマの残った土地と家畜と鉱山の権利を保護するため、1884年4月7日、アコマの人たちはビボ兄弟に12,000ドルでアコマの土地の30年間リースに調印したが、それに驚いたサンタフェの行政官に目を付けられ、ひと悶着あったのちに無効にされた。 1885年、ソロモンはアコマのフアナ・ヴァレと結婚した。元アコマ知事の孫娘で、カトリック教徒として育ったが、彼女はビボにならってユダヤ教に改宗した。この結婚により、ソロモンは正式にアコマの共同体の一員となった。その年、アコマの人々はソロモン・ビボをアコマ総督 (部族長に相当) に選出し、人々から「ドン・ソロモノ」(Don Solomono) とよばれ、知事を4回務めた。ソロモンは近代的な教育システムの設置を支援し、アコマでの最初の学校教師を輩出し、自分の自宅を学校として提供した。何人かの生徒はペンシルバニア州カーライルインディアン工業学校に送られた。 先住民の学校は共同体の中で論争のまととなり、世代間の不安を引き起こすことになった。総督をやめた後、子供たちにユダヤ人の教育を受けさせるため、ビボと家族はカリフォルニア州サンフランシスコに本拠地を移し、ニューメキシコとカリフォルニアを往復しながらビジネスに従事した。ソロモンビボは1934年5月4日に亡くなり、後に亡くなった妻とともにカリフォルニア州コルマの墓地に埋葬された。彼らの6人の子どもたちの何人かは、後年ニューメキシコに戻り、子孫と彼の兄弟の多くはユダヤ人、ヒスパニック、アメリカ先住民のミックスルーツとしてそこに暮らしている。 2014年10月に公開された『メサのうえのモーゼ』(Moses on the Mesa) は、ソロモンとフアナの実話に焦点を当てた短編映画で、オーランド映画祭 の最優秀短編映画賞を受賞し30を超える映画祭での受賞作品に選ばれた。
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