ハミルトンへの対抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 07:18 UTC 版)
「ジェームズ・マディソン」の記事における「ハミルトンへの対抗」の解説
マディソンの議員時代を特徴付けるものは連邦政府の権限を制限するために動いたことだった。歴史家のウッドはマディソンが積極的な役割を担う中央政府を望むことはなかったと主張した。アレクサンダー・ハミルトンやジョージ・ワシントンが「貴族制を伴う真に近代ヨーロッパ風の政府、常備軍および強力な独立した行政府」を作ろうとしていることを認めて恐れた。 1793年にイギリスとフランスが開戦したとき、アメリカ合衆国は両国の板ばさみになった。1778年に結んだフランスとの同盟条約はまだ生きておりながら、新生間もないアメリカの貿易の大半はイギリスとのものだった。1794年にイギリスがフランス植民地との貿易を行っていたアメリカ商船数百隻を捕獲したとき、イギリスとの戦争が避けられないように思われた。マディソンは、一時的に公的生活から身を引いていたジェファーソンとの協業の中で、イギリスは弱くアメリカは強いと考え、イギリス政府からの報復という怖れはあるが、イギリスとの貿易戦争は恐らく成功するものと信じ、そうすればアメリカがその独立を完全に果たせるようになると考えた。イギリスに対し、「商業的足かせを我々に強制し、我々の独立という目標をほとんど打ち破ろうとしている」と非難した。歴史家のバーグが説明するように、マディソンはイギリスから「彼の国の勢力はほとんど死に体であるのに対し我が国のものは不死身である」と逆襲されることを恐れなかった。イギリス領西インド諸島はアメリカからの食糧が無ければ存続できないが、アメリカはイギリスの工業製品が無くても容易に生きて行けたはずである。この考え方で、「今は我々の方に力があり、そのうちに独力で商業に必要なもの全てを供給できるようになる」という結論になった。しかし、ジョージ・ワシントンは貿易戦争を避け、その代わりに1794年のジェイ条約によってイギリスとの友好的貿易関係を作った。この条約をマディソンは否定しようとしたが失敗した。国中の有権者はジェイ条約やその他重要案件の肯定と否定で別れ、このことが連邦党と民主共和党という第1政党システムの形成に繋がった。 アメリカ合衆国財務長官のアレクサンダー・ハミルトンは連邦党となる国中の支持者のネットワークを作り上げ、第一合衆国銀行で強い中央政府を促進した。マディソンとジェファーソンは連邦党に対抗するために民主共和党を結成した。マディソンは、新しい憲法では銀行を造る明確な権限を連邦政府に与えていないと主張して、ハミルトンの進める第一合衆国銀行創設を止めようとしたが成功しなかった。 多くの歴史家はマディソンが1787年から1788年に全国的な組織を指向するハミルトンとの同盟者だった時点から、1795年までに強い中央政府への対抗者として州の権限を志向する方向に急激に変化し、さらに大統領になったときは元の見解に戻ったことを指摘している。マディソンはハミルトンに対抗することで初めの移行を始め、1793年までにワシントンにも対抗していた。マディソンは、合衆国銀行、州債と国債の制度、およびジェイ条約を含めハミルトンの提案成立について多く破れた。マディソンは高関税の提案を止めることは成功した。 マディソンの政策は1812年の米英戦争のときに弱い中央政府の存在を認識するまでジェファーソンと密接に動いていたが、この戦争をきっかけに国を守るために強い中央政府の必要性を認識するようになった。その後は合衆国銀行、より強い海軍、および常備軍の支持を始めた。しかし、ランス・バニングやゴードン・S・ウッドのような歴史家達はマディソンの見解の連続性を見ており、1792年のような急激な展開ではないとしている。
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