ニューカスコ 1630年-1765年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 23:44 UTC 版)
「ファルマス (メイン州)」の記事における「ニューカスコ 1630年-1765年」の解説
昔のファルマスは、現在あるポートランド市、サウスポートランド市、ウェストブルック市、ケープエリザベス町の領域まで広がっていた。今日の町はニューカスコと呼ばれ、ファルマスというカスコ湾周辺の地域社会の大きな集合の中にある1地区に過ぎない。ファルマスの初期の歴史はヨーロッパ人とインディアンの領土の境目にあったので、激しい暴力で彩られた。カスコ湾は1713年まで北アメリカ大陸におけるイギリス人開拓地の最北端だった。1675年から1763年の間に、イギリス、フランスおよびインディアンの間で多くの戦争が続き、ファルマスは暴力と無縁では居られなかった。1676年から1690年の間で2度、イギリスはフランスとインディアンからの圧力のために、カスコ湾を放棄することになった。 1630年には既に最初のヨーロッパ人としてアーサー・マックワースが、プレサンプスコット川の東岸に住んでいた。マサチューセッツ湾植民地が1658年に、植民地領主フェルディナンド・ゴージズ卿の承継者からメイン地区の政治的支配権を取ったとき、イングランド内戦(1642年-1651年)で議会派が重要な勝利を得た場所にちなみファルマスと改名された。マサチューセッツにもあるファルマスと区別するために「カスコ湾のファルマス」と呼ばれ、結成されたばかりのメイン植民地では7番目の町となり、後の1718年11月12日には正式に法人化された。 ファルマスの町で最初期のものであり歴史的に重要な建築物は防御柵を施された砦と交易基地であり、どちらもニューカスコと名付けられた。ウィリアム王戦争の終った後の1700年に建設された。この砦の元あった場所は今日、州道88号線沿いのパイグローブ墓地の対面に見られる。アベナキ族が交易を行い、道具や武器を修理する会合の場所を望んだので、その要請でマサチューセッツが砦を建設した。1701年、地元のアベナキ族、ペクォーケットとマサチューセッツの役人の会合で、両者の同盟を確実なものにした。1組の石積みケアンが造られ新しい友好関係の象徴とされた。近くにあるブラザーズ諸島の2島は後にこの今では忘れられた記念碑からその名前を貰った。 この和平関係は3年も続かなかった。1702年にはアン女王戦争が始まった。マサチューセッツ湾直轄植民地の総督ジョセフ・ダドリーが1703年6月20日にアベナキ族の代表とニューカスコで会合を行い、フランスと同盟しないように説得しようとした。その試みは失敗し、砦はその2か月後に、アベナキ族の酋長モクサス、ワナンゴネット、アサコンビュイトおよび彼らの同盟フランス軍に包囲された。マサチューセッツの船プロビンス・ギャリーが到着したときに、アベナキ族と500名ほどのフランス兵および大砲が、包囲を解いた。1713年のポーツマス条約で和平が戻った。現在のポートランドへの再入植は1716年に始まり、マサチューセッツ湾直轄植民地はニューカスコ砦を維持するのではなく、破却するよう命じた。1700年にニューカスコを建設したときの考えは、イギリス人とインディアンの友好関係に基づいていたので、それは既に無くなっていた。 ニューカスコはその後も安全な場所とは言えなかったが、1759年のエイブラハム平原の戦いによってケベック市が陥落した後は、フランスとインディアンからの攻撃の脅威を排除することができた。1725年時点ではポートランドから離れていると危険だったので、町には1家族のみが住んでいた。1745年にはインディアンの襲撃があり、1751年にはジョブ・バーナルが殺され、この地域に住む開拓者の危険性を表象することになった。ヨーロッパ人の恒久的住人の大半は1740年以後に移ってきており、1753年には「62家族」となって独自の教区を形成した(現在のファルマス会衆派教会)。その後の2世紀間、ファルマスの人口は1,000人と2,000人の間を行ったり来たりした。これら住人は農業、漁業、海運業に従事した。1800年代までに、プレサンプスコット川、ウェストファルマスのピスカタクァ川、およびマッセルコーブの工場で、農産物を加工し、最終製品を製造するようになっていた。
※この「ニューカスコ 1630年-1765年」の解説は、「ファルマス (メイン州)」の解説の一部です。
「ニューカスコ 1630年-1765年」を含む「ファルマス (メイン州)」の記事については、「ファルマス (メイン州)」の概要を参照ください。
- ニューカスコ 1630年-1765年のページへのリンク