植民地領主
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 18:13 UTC 版)
勅許に名前を記された植民地領主は、第2代クラレンドン伯爵ヘンリー・ハイド、初代アルベマール公爵ジョージ・マンク、初代クレイブン伯爵ウィリアム・クレイブン、ストラットンの初代バークレー伯爵ジョン・バークレー、初代シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパー、ジョージ・カートレット卿、ウィリアム・バークレー卿(ジョンの弟)、ジョン・コールトン卿の8人であった。8人の中で、カロライナに最も興味を示したのがシャフツベリであり、彼の秘書官であり哲学者のジョン・ロックは批准されることのなかったカロライナ憲法を書いたとされている。ジョン・ロックの起草した基本法は、領主らの参議が立法権を掌握する貴族政を提案したものであったが、他の植民地人が対等の権利を主張したために、信仰の自由以外は定着しなかった。植民地領主の他の何人かは他の植民地にも興味を示した。ウィリアム・バークレー卿はバージニア植民地に、ジョン・バークレーとジョージ・カートレット卿はニュージャージー植民地という按配だった。 植民地領主は国王の勅許によってその権威が認められていたが、独立した主権に近い形で権威を行使することができた。実際の行政府は1人の知事、半分は植民地領主によって指名される強力な行政委員会および比較的力の弱い市民に選出された議会で行われた。 カロライナの領土内でイギリスの最初の開拓地設立の試みは、失われた植民地と呼ばれるロアノーク島であったが、この地域での最初の恒久的開拓地は1653年にバージニア植民地からの移民と他にニューイングランドやバミューダから来た移民によって設立されたものである。国王勅許の期限である10年間が過ぎる前に、現在のノースカロライナ州北東隅にあるアルベマール湾地区のチョワン川とロアノーク川堤に開拓地を築いたものであった。アルベマール開拓地はバージニアでは「はみ出し者の港」と呼ばれるようになった。 1665年、ジョン・イーマンズ卿が今日のウィルミントン近くケープフェア川沿いに、2番目の恒久的開拓地を築き、クラレンドンと呼ばれた。 1670年には植民地領主の指示で前の開拓地より南、現在のチャールストン近くにもう一つの開拓地が造られた。チャールストン開拓地は、自然の良港があり西インド諸島との交易に便利だったので、アルベマールやケープフェアの開拓地よりも急速に発展した。シャフツベリ卿はチャールストンの道路割を指示し、近くのアシュリー川やクーパー川は彼の名前に因んで名づけられた。 チャールストンとして知られるようになった南方の開拓地は植民地全体の政府所在地となった。しかし、他の開拓地から遠いために、植民地の北部と南部は1691年まで大方独立した形で運営された。知事にはフィリップ・ルドウェルが指名され両地区を兼ねた。1691年から1708年までは両地区の開拓地は一つの共通の政府に治められた。北部は独自の議会と委員会を持ち続けており、知事はチャールストンに駐在して北部には知事代行を指名した。この期間、2つの地区はノースカロライナとサウスカロライナと呼ばれるようになった。北部のアルベマール領は主にバージニア植民地からの移民がタバコを生産し、南部のサウスカロライナでは西インド諸島のバルバドスから移民が流入し、砂糖の生産が始まった。
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