植民地領主時代の終わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/31 23:19 UTC 版)
「サウスカロライナ植民地」の記事における「植民地領主時代の終わり」の解説
植民地領主はサウスカロライナの開拓開始当初から評判が悪かった。特に資産を求めて植民地に移民して来た者は自治権も持ちたかったからである。これらの人々は統治の基礎としてカロライナの詳細で理想的な基本憲法に対して短く柔軟な王室の勅許を好んだ。さらに多くのイングランド国教会信徒は植民地領主が非国教徒に対して信教の自由を保障していることに不満だった。1719年11月、カロライナはジェイムズ・ムーアを知事に選び、イギリス国王に対する代表団を送って、カロライナを王の指名する総督が治める直轄植民地とすること、およびイギリス政府から直接植民地に支援と安全保障を求めることの請願を行った。国王はカロライナの輸出産品に興味があり、植民地領主では植民地を適切に守れないと考えていたので、植民地の請願に同意した。植民地領主時代の最後の知事となったロバート・ジョンソンが最初の総督になった。 一方、カロライナ植民地はゆっくりと2つに割れていた。最初の50年間はほとんどの開拓地がチャールストン周辺に集中していた。植民地の北部には水深の深い港がなかった。ノースカロライナで初期に開拓が進められた地域アルベマール開拓地はバージニアとの結びつきが強いバージニアの開拓者によって植民地化されていた。1712年、カロライナの北半分は独自の政府を持つことを認められ「ノースカロライナ」と称した。ノースカロライナ植民地は1729年まで植民地領主の支配の下に置かれた。 サウスカロライナは人口が多く商業的にもより重要であったので、多くのヨーロッパ人は、カロライナと呼ぶときは主にサウスカロライナのことを指し、ノースカロライナではなかった。アメリカ独立戦争の頃までに、サウスカロライナという呼び方が定着した。
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