植民当初から19世紀初期までの状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:19 UTC 版)
「ポピュラー音楽」の記事における「植民当初から19世紀初期までの状況」の解説
植民地時代、白人入植者社会の音楽の大半はイギリスから輸入された世俗音楽や礼拝用音楽だった。18世紀半ばには東海岸ニューイングランドでオリジナルの讃美歌をつくる動きが出てきてアメリカ独自の音楽表現が生まれたが、芸術音楽はヨーロッパ出身者が依然として主導権を握っており、18世紀末にアメリカで一番人気があった曲はイギリスのイギリスの職業作曲家がロンドンの遊園地で行楽客に聴かせるために書いた歌や、英語のバラッド・オペラやコミック・オペラの中でうたわれた歌であったようである。19世紀初めにはイタリア・オペラも人気を博し、ロッシーニ、ベリーニ、ドニゼッティらイタリアのオペラ作曲家のアリアが、シート・ミュージックのかたちで発売されている。こうした状況を象徴するのがアメリカ合衆国国歌である「星条旗」(1814年)、独立革命中の流行歌「ヤンキー・ドゥードル」(1780年ころ)、準アメリカ合衆国国歌「アメリカ」(1831年)が全てイギリス起源の曲だということである。ただ、アメリカ独自の表現を求める努力は続いており、ニューイングランドですたれた讃美歌づくりはアメリカ南部に伝えられ、「アメージング・グレース」などの今日でも歌われる讃美歌を生み出しており、またローウェル・メーソンは1838年にボストンの公立学校に音楽教育を導入したほか、讃美歌を1200曲以上作曲している。
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