ニコラ (メルクール公)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/18 08:41 UTC 版)
![]() |
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。(2016年9月)
|
ニコラ・ド・ロレーヌ Nicolas de Lorraine |
|
---|---|
メルクール公 | |
![]() |
|
在位 | 1569年 - 1577年 |
|
|
出生 | 1524年10月16日![]() |
死去 | 1577年1月23日(52歳没) |
配偶者 | マルハレータ・ファン・エフモント |
ジャンヌ・ド・サヴォワ | |
カトリーヌ・ド・ロレーヌ | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ロレーヌ家 |
父親 | アントワーヌ |
母親 | ルネ・ド・ブルボン=モンパンシエ |

ニコラ・ド・ロレーヌ(Nicolas de Lorraine, duc de Mercœur, 1524年10月16日 - 1577年1月23日)は、フランスのメス司教(在任:1543年 - 1548年)、ヴェルダン司教(在任:1544年 - 1547年)。後にロレーヌ公国摂政(在任:1552年 - 1559年)、ヴォーデモン伯爵(在位:1548年 - 1577年)、メルクール公爵(在位:1569年 - 1577年)。
生涯
ロレーヌ公アントワーヌとその妻でブルボン公シャルル3世の妹であるルネとの間の次男として、バル=ル=デュックに生まれた。聖職者の道を歩むことを定められ、1543年にはメス司教に、翌1544年にはヴェルダン司教に就任した。
しかし1545年6月に兄のロレーヌ公フランソワ1世が若くして急死したため、ニコラは兄の未亡人クリスティーヌ・ド・ダヌマルクとともに、わずか2歳の甥シャルル3世の傅育役兼行政官として、ロレーヌ公爵領の事実上の統治者に就任した。しかし11月、ロレーヌの等族たちはニコラを排除してクリスティーヌ単独の摂政政治の体制をしいた。親ハプスブルク派であるクリスティーヌの統治に反対していたニコラは、1548年には司教位を返上して正式に還俗し、ヴォーデモン伯爵を名乗った。
1552年、フランスがトゥール、メス、ヴェルダンの3司教領(Trois-Évêchés)を支配下に収めると、ニコラは義姉クリスティーヌを追い出して甥シャルル3世の単独の摂政に就任し、シャルル3世が1559年に親政を開始するまで務めた。
1551年、メス司教領の一部だったノムニー(現在のムルト=エ=モゼル県)が切り離されてニコラに所領として与えられており、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世は1567年にニコラをノムニー侯爵に叙した。またフランスにおいても、ニコラが母親から相続したメルクール(現在のオート=ロワール県)男爵領が、1563年に公領となり、1569年にはフランス王国同輩公(Pairie de France)の公爵領に陞爵した。
子女
1549年5月1日にブリュッセルにおいて、エフモント伯ヤン4世の娘マルハレータ(1517年 - 1554年)と最初の結婚をし、間に1男3女の4人の子女をもうけた。
1555年2月24日にフォンテーヌブローにおいて、ヌムール公フィリップの娘ジャンヌ・ド・サヴォワ(1532年 - 1568年)と再婚し、間に4男2女の6人の子女をもうけた。
- フィリップ=エマニュエル(1558年 - 1602年) - メルクール公爵
- シャルル(1561年 - 1587年) - 枢機卿、トゥール司教、ヴェルダン司教
- ジャン(1563年)
- マルグリット(1564年 - 1625年) - 1581年にジョワイユーズ公アンヌと結婚、1599年にピネ公フランソワ・ド・リュクサンブールと再婚
- クロード(1566年)
- フランソワ(1567年 - 1596年) - ショサン侯爵
1569年5月11日にランスにおいて、同族の従弟であるオマール公クロードの娘カトリーヌ(1550年 - 1606年)と3度目の結婚をし、間に3男2女の5人の子女をもうけた。
- アンリ(1570年 - 1600年) - シャリニー伯爵、モイ侯爵
- クリスティーヌ(1571年)
- アントワーヌ(1572年 - 1587年) - ボーリュー大修道院長、トゥール司教
- ルイーズ(1575年)
- エリック(1576年 - 1623年) - ヴェルダン司教
脚注
|
|
|
「ニコラ (メルクール公)」の例文・使い方・用例・文例
- 泳者のシンディ・ニコラスは、へとへとになって泳ぎ切った後、ドーバーでかろうじて陸に上がってきたが、海峡水泳教会のスポークスマンは彼女がとても元気であると発表した。
- ニコラス嬢は8時間58分かけて英国側のドーバーからフランスに向かって泳ぎ、次に向きを変えて英国へ戻ってきた。
- ワイル病もしくはカニコラ熱の原因となる重要な病原菌
- それを含んでいて、ロシアの皇帝として改革を導入したニコラス1世の息子は農奴の解放を制限した(1818年−1881年)
- ニコラウス2世が退位した後の国家首相であったが、ボルシェビキによって倒されたロシアの革命家(1881年−1970年)
- ニコラウス2世の宮廷での宗教的なアドバイザーであったシベリア人の農民の僧
- 米国の無政府主義者(イタリア生まれ)で、ニコラ・サッコと共に殺人によって有罪と宣告され、世界的な抗議にもかかわらず、処刑された(1888年−1927年)
- 彼はあらゆる責任を避け,クールな人生を送っている――確かにその通りである,12歳のマーカス(ニコラス・ホルト)という少年に出会うまでは。
- メイブリー子(し)爵(しゃく)(ジョン・リス=デイヴィス)は,彼の甥(おい)のニコラス・デヴロー卿(きょう)(クリス・パイン)が王位継承権を持っていると言う。
- ミアが驚いたことには,ニコラスは,誕生パーティーで彼女が恋をした男性だった。
- ゲイツ一族はその秘密を守り,現代のベンジャミン・フランクリン・ゲイツ(ニコラス・ケイジ)まで,代々その話を伝えた。
- 警官のジョン・マクローリン(ニコラス・ケイジ)とウィル・ヒメノ(マイケル・ペーニャ)はワールド・トレード・センターの惨事の現場にいち早く到着する。
- フランスの大統領選挙は前内相のニコラ・サルコジ氏(52)の勝利で終わった。
- ベン(ニコラス・ケイジ)は真相を突き止め,一族の名誉を回復しようと決心する。
- チェコのニコラ・スドバ選手との決勝では,上村選手がターン,ジャンプ,スピードでスドバ選手を上回った。
- 小学生のケイレブ・ケストラー(チャンドラー・カンタベリー)は数字が書かれた紙をもらい,それを父親のジョン(ニコラス・ケイジ)に見せる。
- 2012年3月にはニコライ・モロゾフコーチとの師弟関係を解消した。
- 右の写真はベルリン郊外にあるニコラスゼー駅です。
- 男子シングルス決勝で,世界ランク1位の国(くに)枝(えだ)慎(しん)吾(ご)選手がフランスのニコラ・ペイフェール選手を6-1,6-1で破り,3連覇を果たした。
- ニコラ_(メルクール公)のページへのリンク