ドジャース戦法生みの親
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 09:33 UTC 版)
「アル・キャンパニス」の記事における「ドジャース戦法生みの親」の解説
現役引退後、フロリダ州ベロビーチ(英語版)において毎年600人ものプロ野球選手を集めて開催するドジャースのスプリングトレーニングの訓練係に任命されたキャンパニスは野球技術の教育方法に関する講義と討論の内容を何年もノートに書き続け、それを1954年に『ドジャースの戦法』として書籍化した。攻撃では犠打やヒットエンドランを用いて得点を取り、守りでは失点を防ぐためにバント対策でシフトを敷く際に外野手もカバーに走るというようなチームプレーが軸となっており、当時のドジャースはまだ目新しかったこのドジャース戦法を導入して守備を最大限に活かして守り勝つ野球(スモールボール)で強豪チームとして君臨していた。1961年シーズンに日本プロ野球球団、読売ジャイアンツの監督として1年目を迎えた川上哲治は考え抜いた末、何をどうすれば勝つ確率を上げられるのかという疑問の答えをこの本の中から見出した。そして、何十冊と取り寄せて巨人の選手たちに配った。1963年春にベロビーチまで行ってドジャースの練習を観察し、キャンパニスから直接教えを受けた川上巨人のヘッドコーチ、牧野茂は「守備練習こそが勝利への直通路だ」と結論付けた。チームの新人選手を指導するための教本としてドジャース組織では「バイブル」のように重宝され、1998年シーズン開始前に球団が買収されるまではその影響力を保持することになった。 キャンパニスの本領が発揮されたのは1963年のワールドシリーズである。このシリーズではドジャースが常勝ヤンキースを4勝0敗で下した。彼は2人のアシスタントと分担を決め、この1963年シーズン後半を過ぎる頃にヤンキースの試合を連日観戦し、キャンパニス・レポートと呼ばれる膨大な量のデータを作り上げた。当時のドジャースのGMも「未だかつてこれほどまで詳細なものを見た事が無い。これで我がチームのワールドシリーズ制覇は九割方確定した」と歓喜し、この言葉通りになった。以下は見事に的中したレポートに基づく指示の一例である。 第3戦の指示 「投手のジム・バウトンは立ち上がり球は荒れ、何処に来るか分からないから待球主義で行け」(1回裏にバウトンはジム・ギリアムに四球を与えた後、暴投で二塁まで進ませ、トミー・デービスの適時打で1点。試合は0-1でドジャースが勝利) 「左打者、ジョニー・ブランチャード(英語版)の打球は9割方は二塁ベースより右に飛ぶ。遊撃手のモーリー・ウィルスは二塁ベースより一塁寄り、二塁手のデック・トレースキー(英語版)はベースの中間に、一塁手のムース・スコーロン(英語版)は ライン際を守れ」(5回表無死からブランチャードが放った強烈なゴロは二塁ベースの右を襲ったが、ウィルスはこれを余裕を持って裁き、彼を一塁に刺した) 第4戦の指示 「一塁手のジョー・ペピトーンは肩が良くないし、距離が遠くなると正確な球を投げられない。だから内野手の送球を彼が後逸したら躊躇せずに三塁まで走れ」(1-1で迎えた7回裏、先頭のギリアムが放った三塁ゴロの送球をペピトーンが後逸し、ギリアムは後ろを振り向かず三塁まで滑り込み、ウィリー・デービスの犠飛による決勝点に繋がった) 「ミッキー・マントルは右打席で打つ時、低めに絶対の自信を持っているが、外角肩から胸のマーク付近の速球にはからきし弱い」(マントルは7回表にコーファックスの投じた内角低めを左翼席へ叩き込み、同点本塁打としたが、9回表は最後に外角低めへ速球を決められ、見送りの三振) マントルの他にもフランク・ハワードは内角に弱く、ロジャー・マリスにはチェンジアップが効果的、ペピトーンはカーブに対しては盲目的、という風にヤンキース各打者の弱点を分析した。試合の前半にはヤンキースはほぼ確実に犠打を使用しない事を調べ上げ、内野手に深く守らせた。第3戦でドジャース投手のドン・ドライスデールが牽制球で一塁走者を刺したのも「ヒットエンドランのサインが事前に分かっていたからだ」とキャンパニス本人が説明している。このシリーズのヤンキースは4試合で僅か22安打に終わり、三振数は37を計上した。
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