デビュー・初代新人王(キャリア初期)
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「澤登正朗」の記事における「デビュー・初代新人王(キャリア初期)」の解説
1991年12月4日、地元の静岡に新規発足したプロサッカークラブ「清水エスパルス」に、大卒第1号選手(契約第3号選手)として加入が決定。チーム始動の翌1992年から、長谷川健太、大榎克己、堀池巧、三浦泰年、向島建、真田雅則、内藤直樹らと共に、清水の草創期メンバーとして活躍した。1992年9月5日、Jリーグカップ第1節の名古屋グランパス戦で公式戦デビュー。第2節の横浜マリノス戦で決勝点となるミドルシュートを決め、公式戦初ゴールを記録。エスパルスの公式戦初勝利に貢献した。1992年度は、Jリーグ開幕を翌年に控え、公式戦はカップ戦のみ行われ計13試合に出場。Jリーグカップ準優勝、天皇杯ベスト8に貢献。1993年の2月には、日本代表に初招集。Jリーグ開幕戦の9日前の5月7日に、A代表初ゴールを記録した(後述)。 Jリーグ元年(1993年シーズン)は、リーグ戦35試合に出場7得点(公式戦40試合出場9得点)。Jリーグカップのグループリーグは、ワールドカップ・アジア最終予選の期間中に行われたため不参加となった。Jリーグ開幕戦の5月16日、横浜フリューゲルス戦(三ッ沢)でリーグ戦初出場(先発フル出場)。第8節の横浜マリノス戦(日本平)でリーグ戦初ゴール。第11節の横浜フルューゲルス戦(日本平)では、コーナーキックから直接ゴールを決め勝利に貢献した。7月には、Jリーグオールスターサッカーに初出場。ルーキーながらWESTチームの背番号10番を付けてプレーした。同月の24日に開幕したNICOSシリーズ(2ndステージ)は、シジマール、加藤久が加入し、第2節から9連勝を記録。第15節の浦和レッズ戦(国立)では、リーグ戦初の直接FKを沈め勝利。このFKは清水エスパルスのリーグ戦50得点目の記念ゴールとなった。続く第16節は、視聴率30.8パーセント(関東地区・ビデオリサーチ調べ)を記録したヴェルディ川崎との首位攻防戦となったが、8日前に行われたJリーグカップ決勝同様にヴェルディの牙城を崩す事はできず、新戦力としてデビューしたFWのマルコーンも不発に終わり0-1で敗れた。2ndステージは一時は首位に立つなど勢いを見せた清水であったが、この敗戦が響いて2位。年間総合順位は3位(年間勝利数は2位)となったが、清水の中心選手として活躍し、創設間もない新規クラブの躍進に大きく貢献したとして、Jリーグ初代新人王に輝いた。奇しくも初代最優秀選手賞(MVP)に選ばれたのは、中学時代に練習で共に汗を流した三浦知良であった。 1994年8月1日、エメルソン・レオン監督に代わり、「左足の魔術師」と呼ばれたロベルト・リベリーノがコリンチャンス時代のチームメイトであったセルジオ越後の紹介で清水の監督に就任した。リベリーノ監督からは、様々な種類のパスやシュートの蹴り方や逆足(左足)のキック、フリーキック等の個人指導を受け、サッカーの技術力の向上や後のシーズン活躍の足掛かりとなった。 1995年シーズンは、リーグ戦13得点を挙げ自身初の2桁得点を達成。以後1999年まで5年連続で公式戦2桁得点をマークした。
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