エメルソン・レオン (ポルトガル語 : Émerson Leão 、1949年 7月11日 - )は、ブラジル ・サンパウロ州 出身の元サッカー選手 、サッカー指導者 。現役時代のポジションはゴールキーパー 。
経歴
現役時代はGKでブラジル代表 の守護神として活躍。ワールドカップ は1970年 、1974年 、1978年 、1986年 の4大会で代表となり、1974年と1978年大会では全試合に出場した[ 1] 。
1992年 、清水エスパルス の2代目監督として来日。ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ )と常にJリーグ 、ナビスコカップ などで優勝争いを展開するチームに育てるも、あと一歩のところで優勝を逃した。また、1993年の第2ステージでは、優勝争いに加わり2位に入った。1994年の第1ステージでは、優勝争いに加わり、2位に導いたが、選手と賄賂を行っていたことが発覚し、監督を解任される。
1996年 後期にはV川崎の監督に就任、天皇杯 優勝を飾るがリーグ戦の成績不振を理由にその年限りで解任された。天皇杯優勝後の会見で解任された事に関して、不満を示した。その後2000年 にブラジル代表監督に就任したが、翌2001年 のコンフェデ杯 でブラジル国内でプレーする選手中心だったとはいえ、4位に終わったことを受けて解任された。2005年 4月、サンパウロFC 監督として、サンパウロ州選手権 優勝(19試合中、14勝3分2敗)、その直後、成績不振を理由に前監督を解任したヴィッセル神戸 の監督就任で実に9年ぶりのJリーグ復帰を果たしたが、成績改善に結びつかず、わずか2か月で退任(事実上の解任)。7月18日 、16年ぶりにブラジル・SEパルメイラス 監督に復帰した。
ラモス瑠偉 はレオンの清水時代からその戦術を酷評していたが、1996年にレオンのV川崎への監督就任が決定すると、その下でプレーすることにあからさまに拒絶反応を示し、前身の読売時代から永きにわたって在籍していたV川崎から京都 への移籍を決断した(翌1997年 にレオンが解任されるとすぐさまV川崎に復帰)。
反面、清水・V川崎でレオンの指導を受けた三浦泰年 はレオンを恩師と慕っており、三浦がヴィッセル神戸で強化担当の任についた際にレオンを監督として招聘した。伊東輝悦 が、J1 500試合出場達成時、Jリーグアフターゲームショー に出演した際、「最も影響を受けた監督は?」という質問にレオンの名前を挙げている。
試合数
国際Aマッチ 80試合(1970年-1986年)[ 2]
ブラジル代表
国際Aマッチ
年
出場
得点
1970
2
0
1971
0
0
1972
4
0
1973
5
0
1974
15
0
1975
0
0
1976
5
0
1977
13
0
1978
12
0
1979
8
0
1980
0
0
1981
0
0
1982
0
0
1983
14
0
1984
0
0
1985
0
0
1986
2
0
通算
80
0
タイトル
選手
パルメイラス
グレミオ
コリンチャンス
ブラジル代表
監督
スポルチ
清水エスパルス
ヴェルディ川崎
アトレチコ・ミネイロ
サントス
コパCONMEBOL : 1998
ブラジル全国選手権 : 2002
サンパウロ
脚注
関連項目
外部リンク
ブラジル代表監督
ピメンタ 1936-1938
ナシメント 1939
ラグレカ 1940
バルセロス 1940
ピメンタ 1942
コスタ 1944-1950
Z.モレイラ 1952
A.モレイラ 1953
Z.モレイラ 1954-1955
コスタ 1955
フェオラ 1955
ブランドン 1955-1956
コスタ 1956
テテ 1956
ピリロ 1957
ペドリーニョ 1957
ブランドン 1957
フェオラ 1958-1960
A.モレイラ 1961-1963
フェオラ 1964-1966
ユストリッチ 1968
サウダーニャ 1969-1970
ザガロ 1970-1974
ブランドン 1975-1977
コウチーニョ 1977-1980
サンタナ 1980-1982
パレイラ 1983-1984
エドゥ 1983-1984
エヴァリスト 1984-1985
サンタナ 1985-1986
シルバ 1987-1988
ラザロニ 1989-1990
ファルカン 1991
パレイラ 1991-1994
ザガロ 1995-1998
ルシェンブルゴ 1998-2000
レオン 2000-2001
スコラーリ 2001-2002
ザガロ 2002
パレイラ 2003-2006
ドゥンガ 2006-2010
メネーゼス 2010-2012
スコラーリ 2012-2014
ドゥンガ 2014-2016
チッチ 2016-