アグスティン・セハスとは? わかりやすく解説

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アグスティン・セハス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 18:52 UTC 版)

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アグスティン・セハス
名前
本名 アグスティン・マリオ・セハス
ラテン文字 Agustín Mario Cejas
基本情報
国籍 アルゼンチン
生年月日 (1945-03-22) 1945年3月22日
出身地 ブエノスアイレス
没年月日 (2015-08-14) 2015年8月14日(70歳没)
身長 185cm
選手情報
ポジション GK
ユース
1959-1962 ラシン・クラブ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1962-1969 ラシン・クラブ 153 (0)
1970-1975 サントス 254 (0)
1975 ウラカン 50 (0)
1976 グレミオ 56 (0)
1977-1980 ラシン・クラブ 160 (0)
1981 リーベル・プレート 9 (0)
代表歴
1963-1970  アルゼンチン 8 (0)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

アグスティン・マリオ・セハススペイン語: Agustín Mario Cejas1945年3月22日 - 2015年8月14日)は、アルゼンチンの元サッカー選手。元アルゼンチン代表。ポジションはGK

クラブ歴

1959年、13歳の時にラシン・クラブの下部組織に加入。1962年に17歳でトップチームデビューを記録した。1966年にプリメーラ・ディビシオン優勝、翌年にコパ・リベルタドーレスを制覇、インターコンチネンタルカップでもセルティックFCを下し世界王者となった際のゴールを守っていた。

1970年にサントスFCに移籍。1973年にはボーラ・ジ・オーロに輝いた。

1975年にCAウラカン、翌年にグレミオFBPAに所属した。

その後は再びラシン・クラブに所属し、1980年まで在籍、合計334試合の出場は1995年にグスタボ・コスタスに抜かれるまでクラブ記録であった。

1981年にCAリーベル・プレートに移籍、同年に引退した。

代表歴

1964年、18歳にして東京オリンピックに出場した[1]。その後、1969年から1970年にかけて代表として出場を重ねた。

引退後

2015年8月14日、アルツハイマー症のために死去した[2][3]

参考文献

  1. ^ Agustín Cejas Biography and Statistics”. Sports Reference. 2020年4月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年10月26日閲覧。
  2. ^ "Murió Agustín Cejas, gloria del Racing campeón del mundo", Clarín, 14 August 2015
  3. ^ "Falleció Agustín Mario Cejas, una gloria de Racing", Infobae, 14 August 2015

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