デハ1350形・デハ1400形・クハ1550形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 10:21 UTC 版)
「東急3000系電車 (初代)」の記事における「デハ1350形・デハ1400形・クハ1550形」の解説
1947年に幻のデハ3550形(上記のデハ3550形を参照)の代替として入線したもので、いずれも3000番台への改番はなされず井の頭線時代のままの車両番号で使用された。神中線(現・相模鉄道)などからの一時的な応援車を別にすれば、東急鉄道線きっての異端車である。 デハ1350形は1366号の1両のみ。1930年川崎車輛製の小田原急行クハ564がその出自で、その後電動車化されてモハ251となった。大東急合併後にデハ1366となり、デハ1367とともに井の頭線に転属した。デハ1367は永福町車庫の空襲で焼失し、残ったデハ1366が東横線に転属したものである。本車は曰く付きの車両で、井の頭線時代に無人暴走し渋谷駅の車止めを突破の上、床下機器を大破する事故を二度起こしている。本車が転属対象となったのは、二度目の事故復旧の際、元住吉工場から東横線用の電装品(前述した幻のデハ3550の増備車のためのストックといわれる)を流用していたことが理由とされる。一方、台車・主電動機は帝都モハ100形用の川崎K-3・東芝SE139Bに交換されていた。東横線に入線した時点では2扉車だったが、使い勝手が悪かったため3扉化されている。 デハ1400形も同じく1401の1両のみで、1933年、同じく川崎車輛製の帝都電鉄モハ101として製造された。当時の電車としては斬新な大窓を持ち、運転席前面窓上に取り付けられた庇や半開放型の運転台も特徴である。大東急合併後にデハ1401となったが、1945年5月25日の永福町車庫空襲で焼失した。復旧に際してデハ1366同様東横線用の電装品を装備したことが転属の理由とされる。台車はデハ1366と同様に川崎K-3、主電動機は東芝SE139Bで、いずれも帝都モハ100形のオリジナル装備である。 クハ1550形は1553・1554の2両で、それぞれ1938年日本車輌製造製の帝都クハ253・254が出自。やはり永福町車庫で被災し、前記2両とともに東横線入りした。台車は日車D18である。 いずれの車両も片運転台化が行われたが、当初はいずれも片隅式運転台のままで、連結面には元の乗務員扉が残されていた。これらは時代が落ち着くにつれて全室運転台化などとあわせ、徐々に整備されていった。特にデハ1366は1950年に3扉化されたが、これによって小田急時代の面影はかなり薄くなった。また、デハ1400形・クハ1550形の前面庇も後に撤去された。 当初はそれぞれでデハ - クハの2両編成を組んでいた。このうちデハは桜木町事故を契機に1366号の両側と1401号の連結面側に貫通路と幌が整備され、国電復旧車クハ3671を加えた1401-1366-3671の、他社由来車のみの3両編成を組んで東横線で使用された。一方クハは最後まで連結面非貫通のままでデハ3450形等に連結され、主に大井町・池上線で使用され、上り向きクハとしても希少な存在であった。いずれも昇圧改造が行われている。 その後デハ1366は1964年にデハ3550形3554に、デハ1401は1959年に同じくデハ3553に、クハ1553は1963年サハ3360形3366に、クハ1554は1959年に同じくサハ3365に更新された。デハ1366の車体は改造のうえ木造荷電デワ3041の鋼体化に流用されたが、帝都線由来の3両は被災車体の応急復旧であったため状態が悪く、いずれも解体されている。 詳細は「帝都電鉄モハ100形電車」を参照
※この「デハ1350形・デハ1400形・クハ1550形」の解説は、「東急3000系電車 (初代)」の解説の一部です。
「デハ1350形・デハ1400形・クハ1550形」を含む「東急3000系電車 (初代)」の記事については、「東急3000系電車 (初代)」の概要を参照ください。
- デハ1350形・デハ1400形・クハ1550形のページへのリンク