ティーン・アイドル・スター
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「シャーリー・テンプル」の記事における「ティーン・アイドル・スター」の解説
やがて思春期になると子役として微妙な時期にさしかかる。本来は13歳で中学校へ進むところ、成績優秀のため12歳でアメリカ最難関の私立中高一貫校(プレップ・スクール)の一つに飛び級で入学。したがって高校卒業は18歳ではなく17歳である。学校はウェストレイク女子校(Harvard-Westlake School)といい、多くの優れた人材を送り出すことで定評があった。授業が始まると夏休みだけ映画の撮影にあて、残りの時期は学業に専念し始める。主演作『青い鳥(1940年リメイク版)』のプレミア試写会に出席して舞台挨拶と記者会見をするように会社に命じられても校長の許可が出なかったと仕事を断わり、20世紀フォックス幹部を唖然とさせた。 20世紀フォックスの最後の2作品『青い鳥』と『ヤング・ピープル』は興行的に赤字である。『青い鳥』はMGMの『オズの魔法使』の大成功を受けて急いで作られ、大作だが脚本の象徴主義が時代を先取りしすぎて観客には理解できない部分があった。さらにグリム童話の雰囲気を出そうと衣装や小道具をドイツ風にしたところ、おりしもナチス・ドイツのポーランド侵攻が勃発し観客の不興を買い、脚本もシャーリーのイメージと大きくずれていると受け取られる。『ヤング・ピープル』も筋立てがひたすらセンチメンタルでお粗末である。ただし彼女の回想録によれば『青い鳥』は1970年代になって再評価の動きがあったという。 フォックスからMGMに移っても在籍は10か月ばかり。1940年代のMGMは、『オズの魔法使』にシャーリーの出演を切望した1930年代とは大きく様変わりしていた。かつて売り物はルイス・B・メイヤーとアーサー・フリード、ロジャー・イーデンスのラインで製作されたミュージカルだったが、彼女が加わったときはすでにルイス・B・メイヤーの子飼いのジュディ・ガーランド(『若草の頃』)やキャスリン・グレイソン(『錨を上げて』)やラナ・ターナー(『美人劇場』)の全盛期であり、13歳の新参者にはグレイソンが断った低予算で脚本にも魅力のない『キャスリーン』(Kathleen) が回ってきただけである。もっとも子役とティーンの中間の時期、なかなか合う企画がなかったとも言えるかもしれない。移籍先のデヴィッド・O・セルズニックのプロダクションは一切ミュージカルを作らなかったため『キャスリーン』が最後のミュージカル作品である(シャーリーの自伝下巻pp.99-127も参照)。 プロデューサーのデヴィッド・O・セルズニック(『風と共に去りぬ』他)のプロダクションはアメリカで最高の品質の映画を作ると定評があった。当時はユナイテッド・アーティスツ映画社と密接な関係にあり、同時にどの映画会社とも取引があった。セルズニックはジェニファー・ジョーンズと大恋愛の最中で一番よい娘役(たとえば『ジェニーの肖像』や『聖処女』)はジェニファーに回る。シャーリーも映画界でたった数人のティーン・アイドルの一人として立派に成功をおさめていく。セルズニックのもとで撮った作品はすべて黒字である。 ただし品が良すぎ、皆から愛される天真爛漫なティーンは上手に演じられてもセクシーさやダークな面はどうしても出せない。役柄は極めて限定されて「明るい健全な夢見るティーン」タイプ。1930年代に無垢なアメリカの象徴になったためそういう役は演じにくかったことも事実で、観客はセクシーなあるいはダークなシャーリーを見たいとはどうしても思わなかっただろう。ワーナー・ブラザースに貸し出し中に撮った『That Hagen Girl』(1947年・日本未公開)の台本に相手役のロナルド・レーガン(後のアメリカ大統領)から「アイ・ラブ・ユー」と言われる台詞があったところ、イメージにそぐわないと判断してその台詞を削らせたほど、ワーナー・ブラザースは気をつかった。品行方正なスターという評判はとても高く、有名なゴシップ記者でスターのスキャンダルを暴くルエラ・パーソンズやヘッダ・ホッパーですら常に賞賛したほどである(このふたりはジュディ・ガーランドの薬物依存、ディアナ・ダービンの「不倫」等をスクープした)。 ティーン・アイドル時代、彼女自身が最も気に入た作品はコメディ『接吻売ります』(Kiss and Tell) だったという。
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