チャルディラーンの戦いの敗戦とクズルバシュの台頭
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「サファヴィー朝」の記事における「チャルディラーンの戦いの敗戦とクズルバシュの台頭」の解説
一方、サファヴィー朝の成功は、オスマン帝国の支配下にありながら、中央集権的な帝国からは政治的に疎外されていた東部・中部アナトリアの遊牧民に帝国からの離反の傾向を呼び起こした。1514年、オスマン帝国スルタンのセリム1世はアナトリアの不安を一度に取り除く決意を固め、アナトリア東部のチャルディランでサファヴィー朝軍と会戦した(チャルディラーンの戦い)。イスマーイール1世はこの戦いでもこれまでの遊牧民同士の戦いと同じような戦法で決戦に臨むが、よく組織された歩兵と大量の火砲を装備したオスマン軍の前に惨敗した。 チャルディラーンの戦いの敗戦によりサファヴィー朝は多くの将兵を失い、宗教的情熱に支えられた軍事拡大の時代は終わりを迎えた。クズルバシュは占領地を支配領土として分配されて封建領主化し、それまでの過大派に属するシーア派信条は、シーア派の当時の中心地だったシリアから迎えた穏健な十二イマーム派の教えに取って代わられた。十二イマーム派はやがてペルシア社会に浸透し、サファヴィー朝は宗教的情熱に支えられた先鋭運動からテュルク系遊牧民の貴族とペルシア人の官僚(タージーク)に支えられた、セルジューク朝以来の伝統的なペルシアにおける遊牧イスラム王朝の典型に転化していった。 チャルディラーンの戦いの後、政治への興味を失ったイスマーイール1世は酒に溺れ(外交で対オスマン帝国同盟を模索していたとも)、失意の中で1524年に37歳で亡くなった。第2代の君主(シャー)となった息子のタフマースブ1世はわずか10歳で、抑えを失ったクズルバシュは君主の後ろ盾の座を巡って有力部族同士で内紛を繰り返し、サファヴィー朝は王朝最初の危機を迎えた。 成人したタフマースブ1世はシャイバーニー朝の侵攻を退け、1533年にクズルバシュでも有力者のフサイン・ハーン・シャムールーを処刑して部族を抑えることに成功し親政を開始した。タフマースブ1世はペルシア系を重視するなど人事面でクズルバシュを抑え、対外的にはシャイバーニー朝の侵攻を防ぎ、オスマン帝国との戦争(第一次オスマン・サファヴィー戦争(英語版))ではスレイマン1世(セリム1世の子)の盛んな攻勢をイラク・バグダードなど西部辺境の割譲でしのぎ、北西のコーカサス南部に進出してグルジア方面へ勢力を拡大した。また、首都をタブリーズから南東のガズヴィーンへ移したのもタフマースブ1世の治世である。 しかし1576年、タフマースブ1世が死ぬと後継者を巡る争いが起こり、サファヴィー朝は再び危機を迎えた。実権はタフマースブ1世の娘パーリー・ハーン・ハーヌム(ペルシア語版)が掌握し、異母兄のイスマーイール2世を擁立し、翌1577年にイスマーイール2世が死ぬとその兄ムハンマド・ホダーバンデを傀儡として擁立するに至るが、彼女もやがてムハンマドの妻マフディ・ウリヤ(英語版)に殺害され、ウリヤも敵対するクズルバシュによって殺された。タフマースブ1世に抑えられていたクズルバシュも内乱を起こしペルシアは無政府状態となり、これを見てオスマン帝国とシャイバーニー朝が再び侵攻を開始し(第二次オスマン・サファヴィー戦争(英語版))、サファヴィー朝発祥の地タブリーズを含むアゼルバイジャンとホラーサーンの大部分が失われた。1579年にはオスマン帝国の宰相ソコルル・メフメト・パシャを暗殺したことで一時的にオスマン帝国軍を撃退した。しかし、ウリヤとクズルバシュの対立が再燃してマフディ・ウリヤも後宮で絞殺され、ムハンマドの長男ハムザもオスマン・サファヴィー戦争で敗北し、1586年にクズルバシュに暗殺され、実権を握ったクズルバシュの内部対立が激化すると無政府状態に陥った。
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