ダービーをアメリカ最大の競走に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 23:12 UTC 版)
「マット・ウィン」の記事における「ダービーをアメリカ最大の競走に」の解説
当時まだ、ケンタッキーダービーは地方のいちイベントでしかなく、ウィンが就任した1904年当時の3歳馬の大競走といえばシカゴのアメリカンダービー、またはニューヨークのベルモントステークスであり、アメリカ競馬の中心地である東部の注目を集めるには時間がかかった。1911年、ニューヨーク州でハート=アグニュー法(英語版)によって馬券発売が禁止され、大手の競馬場が閉鎖されると、ニューヨークの競馬人たちは他の州の競走に馬を送り込んでいった。1911年のケンタッキーダービーにはリチャード・F・カーマンが有力馬メリディアン(英語版)を送り込んで優勝すると、ウィンは「素晴らしいレースだった、今回が将来を通じてチャーチルダウンズでの最高の開催となるだろう」と称賛した。 翌年以降も東部から出走する有力馬が続出し、1912年には前年の最優秀2歳牡馬であったワース(英語版)が出走して優勝、1913年にはテンポイントという有力馬が出走して本命視されたが、大穴ドンレイル(英語版)がレコードタイムで優勝して184.9ドルの高額配当を叩きだす波乱の結果を見せた。1914年には前年の2歳チャンピオンであったオールドローズバドが出走し、2分03秒40のレコードタイムで走破、ウィンはこれに「オールドローズバドは私の望みをすべて叶えてくれた。今年は驚くほど優秀な3歳馬が集まったが、この馬がホッジ(騎手)を乗せてここの10ハロンのレコードを樹立するのを見ていても、私はびっくりしなかった。観衆については、これまでケンタッキー州で動員された最高の人数をはるかに超えていたね」とコメントしている。 1915年にチャーチルダウンズはケンタッキーダービーに「アメリカ最大の競走」というキャッチコピーで広告を打ち、1913・14年連年のレコード決着を引き合いに出して盛り上げた。この1915年の競走では、東海岸でも有数の馬主である ハリー・ペイン・ホイットニーの所有する、有力3歳牝馬のリグレットが出走し、同馬に優勝したことでその地位を確たるものにした。ウィンは後にこの競走を振り返り、「この競走ではリグレットが勝つことだけが重要だった。そうなれば我々の全国的な大宣伝になる。そしてリグレットは期待を裏切らなかった。おかげでダービーはアメリカの名物になることができた」と語っている。 また、1922年にはプリークネスステークスとケンタッキーダービーが同日の開催になっていたが、ここで注目されたのが前年無敗の2歳チャンピオンであったモーヴィック(英語版)のレース選択で、このスターホースがどちらの大競走に出走するかが注目された。ウィンは競走の2か月前には「モーヴィックはバラを求めて走るだろう」と宣言、すかさずはニューヨークに出向き、モーヴィックの馬主であるベン・ブロックを含む多数の競馬関係者にダービーについて語り、さらに出走の確約を取り付けてきた。予想通りモーヴィックは同年のケンタッキーダービーを優勝し、その記事は『ニューヨーク・タイムズ』や『ニューヨーク・モーニング・テレグラム』などの新聞の1面を飾った。 第二次世界大戦が勃発していた1943年、アメリカ国防輸送局のジョセフ・B・イーストマンは、チャーチルダウンズに対して開催中止の通告を行っていた。しかしウィンはこれに反発し、「ケンタッキーダービーは行われる。たとえ出走馬が2頭しかいなくても、観客が2人しかいなくても」と宣言。一方でルイビルの外からの観客を集めないことで輸送の負担を軽減する方針を提案し、またゴムタイヤの需要制限にも抵触しないように駐車場を閉鎖、来場者に自動車で来ないよう呼びかけも行った。これにイーストマンも折れ、ダービーは開催が許可された。その上でウィンはルイビル市街に住む指定席券を持つファンから券を買い取り、それをルイビル付近に駐屯する陸軍に融通し、これによって1943年のダービーにはルイビルの人口を超える61,209人の観衆が詰めかけていた。来場者が自動車を控えて替わりに使った交通手段から、1943・44年のダービーは「Streetcar Derby(路面電車のダービー)」と呼ばれた。
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