ストラダーレ量産期 (1974年-1975年)
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「ランチア・ストラトス」の記事における「ストラダーレ量産期 (1974年-1975年)」の解説
当時のラリー車は量産車両を競技用に改造したものが一般的だったため、グループ4も量産車の競技用特別仕様を想定したものである「連続する12ヶ月間に5,000台を生産した量産GTカー」をグループ3(英語版)として公認し、それをベースに改造した車両をグループ4とする規定であった。しかしランチアのチェーザレ・フィオリオは、グループ4のホモロゲーション取得のための必須生産台数が「連続12ヶ月間に400台」と少ないことを利用し、パワートレーンだけをグループ3車から流用した競技専用車に近い車両を製作してラリーに持ち込むという手法を編み出した。 グループ4の公認は1974年10月に下りたが、フェラーリからのエンジンの供給が途絶えがちだったこともあり、規定台数(分のパーツを含む完成車)を製造できたのは翌年以降であった。 1974年から製造を開始したとされるストラダーレ仕様は、後期のラリー仕様と同様の両側に張り出すリアフェンダーが純正オプション化され、プロトタイプでは前後ダブルウィッシュボーンであったサスペンションがリアをロアアームにラジアスアームを追加したマクファーソン・ストラットに改められていた。元々ラリー用として開発された設計思想からサスペンションは調整可能な構造であり、最低地上高は130から165mmの間で調整できた。ストラダーレではフロントアップライトはフィアット・124用が流用されており、サスペンションピックアップの調整しろはジオメトリーが変更できるほどではなかったもののスプリングとダンパーはオプションとして数種類が用意され、使用状況に合わせて選択することができたほか、スポーツオプションとして固定式のスタビライザーも用意されていた。実用面を見ると、定員は2名分しかなくラゲッジスペースはリアのエンジンの後端寄り上部のトレーとヘルメットが入る奥行きのあるドアポケット位しかなかった。その上馬力や排気量至上主義であった当時のスーパーカーファンからしてみると、この車以上の数値を持つ車が数多く存在する中でラリー競技に特化したストラトスへの理解が低かったことから、市場的に成功した部類の車とは言えなかった。さらにフェラーリとしてはフィアット・ディーノへ優先的にエンジンを供給しなければならない立場にあり、ランチアにしても1973年のオイルショック後の景気回復までの影響が災いし、市販仕様でさえも消費者ニーズの優先順位的には低く、利益には繋がらなかった。結果的に最終的な全体での生産台数はFIAの規定台数をクリアしたが、フィアットの意向もありストラトスの生産は492台に留まった。その時点でストラトスの生産工程があるベルトーネのグルリアスコ工場が火災に見舞われ、全体生産台数に計上される予定であった1/5程のストラトスが失なわれた。世界的なコレクターの調査によれば結果的に当時の残存数は400台未満とされる。こういった事情からラリーを宣伝材料に利用したフィアットは、販売戦略の対象を高価で特殊なストラトスから大衆車のフィアット・131を基にした「フィアット・131アバルトラリー」へと早々に変更。同時に、ストラトス・プロジェクトに深く関与していたゴッバートは、ランチアのジェネラルディレクターを解任された。チームエンジニアを兼任していたF1ドライバーであったマイク・パークスの死去、フィオリオに至っては1977年よりフィアットのモータースポーツ部門責任者も兼任し、苦渋の思いであと5年はラリーでトップを渡りあえるだろう熟成度7割程であったストラトスでのワークス活動の引き際を模索する事になり、ランチアのWRC活動は縮小。その年の末のフィアットのモータースポーツ部門との統廃合により、両社の計画はラリー活動をフィアットが担い、ランチアはスポーツカーレースへの参戦が割り振られた。
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